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試練
昨日、この動画を見て、取り上げるかどうか悩んだ。
「ワクチンでエイズになる」
考えないようにしているのだけれど、2回打った我が子たちが数年内に死ぬかもしれないということを、改めて思った。
「他人の気持ちなんて、誰にも分からないもの」とは言う。私にとっては、消えて無くなりたいくらいの辛くて悲しいできごとであっても、周囲は大したことがない、しょうがないことだからぐだぐだ言うな、と流されてきたことが3回あった。どれも子どもがらみだ。そういうことを言った人たちは、みんな打っている。夫を別にすれば。
生んだ人間としては、どんな形であれ、どんなに大変であれ、子どもには生きのびてほしいと思う。今思えば、これを心の底から理解できる人が、私の周りにいないのは当然だ。でも、過去2回は、周囲にいる人たちが私とは別の世界の住人だとは思わなかったから、母親としての感情がどうして分からないのだろうと思った。したり顔で慰められると腹が立つし、カウンセリングに行ったところで、どうにもならないのも実証済み。
一人で抱えこむしかない。
今回が3回目。
日本人の8割近くが打ったのであれば、生き残るのも地獄だと思う。そう思えば、若くても”みんな”といっしょに、”みんな”と同じように死んでいくほうが幸せなのかとも思う。ゴールは死なのだから。そう、自分に言い聞かせている。
それでも、ちゃんと教えるべきことを教えていなかった、世の中の嘘にもう少し早く気づいていたら、仕事を辞めたいと言ったときに、辞める後押しをしてやれば良かった、・・・
私が至らなかったから、こうなった。
この思いは拭えない。
2回目のときも同じようなものだ。あのときは、死ねないなら、出家したいと思っていた。現れたのはお釈迦さまではなかった。
昨日、1日遅れでBible Realityを視聴した。
教会に来始めた人が、「私も感動しました、私もこの道で行きます、私もキリストを信じます!」って、人生がガラッと変わったというのはよく聞くんですよ。ところが、その直後ぐらいから壮絶な試練だとか、今まで体験したことのなかったことが起こるんです。「なんで私はせっかくイエス様を信じたのに、こんなことが!」
ということが、よくあるのだそうだ。私は信じたくて信じているのではないし、あまり自覚もなかったのだけれど、人生がガラッと変わり、それまでとは違う種類の苦しみがやってきた。
全部を読んだわけでもないが、「神を信じたら幸せになれますよ~」的な、ほんわかしたものからは程遠く、激しいというか、壮絶というか、辛辣というか、「聖書」にはそういうことが多く書かれている。
私も、そこに巻き込まれてしまったのかもしれない。いや、気づいてしまっただけかもしれない。気づかない人には、試練が試練だと分からないのかもしれない。
我が身が引き裂かれるのと、子どもがグローバリストや医療の餌食にされるのとどちらを選ぶかと聞かれたら、我が身が引き裂かれるほうを取る。
でも、人生のゴールを迎えるまで、「子どもがグローバリストや医療の餌食にされる」という試練が与え続けられるのだろう。
戦争があったり、いつの時代も大変なことがあった。でも、子どもが生きる時代が、こんな時代になるなんて思わなかった。
「聖書」に限らず、林千勝先生もおっしゃっていて、びっくりしたのだけれど、やはり犠牲がなければ、世の中は変わらない。アメリカで3割の人が目覚めているそうだけれど、その影には多くの人が死んでいる。
死ぬことが目的ではないけれど、殉教、殉死するくらいの覚悟を持たなければ、人々は目覚めないのだろう。
お花畑の住人はそれでいいのだろうけれど、私は手繰られるのは絶対にいやだ。だから、命を賭けても、従わない。
(タイトル画像:https://bb-homes.jp/blog/20200726-2193/より)