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逃げるは恥だが天下は取れる。
徳川家康ご本人も人生のうちのダントツ1位で死ぬかと思った件と言う伊賀越え。
これを語るにおいて、伊賀の忍者と服部半蔵の存在は欠かせません。
織田信長が本能寺で亡くなったとき、家康は40人余りの手勢を率いて堺にいました。
一行は平服で何の戦闘力もなく、途中には明智の軍勢はもとより、各地で一揆が多発していたのです。
家康はその時、「もうむり人生おわった」と相当取り乱し、自刃しようとしたのを周りが必死に止めたとか。。。
その家康らが堺から三河へ帰るのを手助けしたのが服部半蔵を中心とする伊賀忍者です。
半蔵はいち早く伊賀に行き、忍者200人余りを味方にしたうえで、リレー形式で家康の警備をさせ、
最短ルートである甲賀から伊賀の険しい山道を経由して伊勢白子湊から海路で三河に帰らせたのです。
この伊賀越えの功績により半蔵を組頭として200人の伊賀衆が徳川軍の戦闘力として召し抱えられ、
忍術を知る武士として従事することとなります。
江戸城において、有事の際の逃亡のための搦手門は、服部半蔵率いる伊賀同心組が警護を任されていました。
この門から城を脱出し、甲府へと向かう甲州街道を通り、甲府城へ逃れる手はずとなっていたといわれています。
そして「半蔵門」としてその名前は現在にも残されています。