あなたはあなたであり、わたしはわたしである。
最近、とあるところで出会った詩があります。
ゲシュタルトの祈り
心理学のお勉強なんかをしているとどこかしらで出会うこの詩に、わたしも出会いました。
わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれれば、それも仕方のないことだ
これに出会った時、すごく突き刺さり、真理であり、とても素敵だなと思ったのですが、この、英文がもっと好きです。
I do my thing, and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by the chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.
日本語と英語で伝わり方って違いますよね。
第二言語が英語だからでしょうか。
You are you and I am I
あなたはあなたであり、わたしはわたしである。
シンプルに、でもまさしくそのとおりな言葉。
そしてこの詩の続きが知りたいと調べていたら、こちらに出会いました。
私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。
もしそれだけならば、お互いの絆も私たち自身も失うことになる。
私がこの世に存在するのは、あなたの期待に応えるためではない。
しかし、私がこの世に存在するのは、 あなたがかけがえのない存在であることを認めるためであり、
そして私もあなたからかけがえのない存在として認めてもらうためである。
お互いの心がふれあった時にはじめて、私たちは本当の自分になれる。
私たちの心のふれあいが失われてしまえば、私たちは自分を完全に見失ってしまう。
私があなたとの出会いは偶然ではない。
積極的に求めるから、あなたと出会い心がふれあう。
心のふれあいは、成り行きまかせではない自分から求めていったところにある。
全ての始まりは私に委ねられていて、そして一人では完結しない。
本当のことは全て、私とあなたとのふれあいの中にあるものだから。
自立した人間である、あなたとわたしの間。
期待に応えるために生きているわけではないけれど、だからといってスパッとなにもかもを切り離してしまうと、あなたとわたしの間にはなにも生まれないよね、ということで。
お互いに自立した上で、
お互いを「積極的に」求めれば、「こころは触れ合っていられる」のですよね。
なりゆきに任せるのではなく。
流されるのではなく。
自分の「意思」を持って。
自分が主体としてあって、「あなた」を「積極的」に求めてこそ、そしてわたしもわたしとした主体があって、「わたし」が「積極的」に求めてこそ、こころは触れ合えるんですよね。
もちろん、「わたし」が「積極的」に求めても、相手がそれを受け取れない、もしくは「積極的」ではない状態であれば、それはそれで、それ以上には触れ合えないというわけで。
わたしは、わたしの中で「積極的」に求めた結果が今なので。
「相手が受け入れてくれるかどうか」とか、そんなことは「相手の課題」であり、「わたしが気にするに及ばず」。
そして「積極的」に求められていないということは、「あなた」にとって、「わたし」が、そこまで「大切な人ではない」ということなので。
こころの触れ合いはなりゆきまかせではない
ので。
結局、「誰」と、「積極的」に、「こころの触れ合い」をしていたいか、ということなんでしょうね。
前文の、ゲシュタルトの祈り。
そしてそれをもとに書かれた、パールズを超えて。
2つで1つで突き刺さるものがあるなと感じているところです。
人間関係や、自分と相手の関係で行き詰まってる時、疲れている時はもちろん、ふだんからこの言葉を思い出しながら生きていきたいなと思う新年度のわたしでした。