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ねぇ、それって、誰のため?自分のために選びたい、自分の人生。

小さい頃の話。

「お母さんがこう言ったから」、「○○ちゃんがそう言ったから」という、「誰それさんに言われたから」→「それをした」ということ、ありませんでしたか??

小さい頃なら、「ああ、そうなの?でもね…」と説かれたり、もう少し大きくなると、「なんでも人のせいにしないの!」と言われたりしたこと、たぶん誰しも数回はあるのかな?なんて、思います。

私はその体質が強かった…のかは分かりませんが、例の双子座の知人に、「わたしのせいってされたら嫌だから自分で決めて」と、なぜかよく言われてました。ただ服見て迷ってるだけでも。

「…自分で決めるわ!意見は多少は参考にするけど!」

と、よく思ってました(笑)

でも、この、「大人になっても他人のせい」は、なかなかイタイです。それは「自分には非はない」と言ってるのと同じだからだと思うのです。

そして私は、誰かのせいにしてれば楽だけど、これはいつかしっぺ返しがくると思ってます。どういう時にそれがくるか。それは「何か大きな決断」をする時に、その決断が出来なくなると思ってます。(だって他責にする理由が欲しいから。)

最近、他責の言葉を数回いただきました。

正直、アラフォーのまわりにいる人たちなので、ある程度はたぶん大人です。この歳にしては珍しいと思ってます。。。

で、この他責の気持ちはどこから来るのかと、逆説的に考えてみました。

まず、他責の気持ちって、多かれ少なかれ、「あなたの言うとおりにしなかったらこうじゃなかったのに…」みたいな気持ちが少なからず含まれてる。

ってことは。

「きみがいなかった(もしくは何も言わなかった)ら、現実は違ってた(しかもいい方に)」ってことですよね。思ってたのと現実が違うから不満が出てくる。予想してたことと違うことが起きてるから、何かしらのベクトルが自分に向いてくる。

え、、、それって、じゃあ、誰のためにしたの…???

と、思ったのです。

「自分を生きてこそ」の、「幸せ」だと思うんです。

私のせいで幸せじゃないなら、気づいた時点で捨ておいても良かったと思いませんか?後から他責にされたら、正直、時間もお金もかえしてあげられないし、どうしたらいいのか分からなくて困ってしまう。

あの時、Aの道とBの道があって、君はAの道を選んだ。Aの道にはAなりの試練があり、でも気付きや成長、やり甲斐なんかもみつけた。Bの道には違う何かがあったかもしれない。それがどうだったのかは、誰にも分からない。

私は、選ばなかった道を後悔したってしょうがないから、選んだ道が正しかったと思えるように生きるしかない。と思って生きてます。(ドラマ:「アラウンド40」の一節より)。選ばなかった道と選んだ道のどっちが正解かを決めるのもまた、「自分」ということです。そしてどっちが正解かなんて、永遠に分からない。

他責傾向のある方には、単純に他責傾向の方と、相手の心情を汲み取りすぎて他責傾向になってしまう(犠牲的な他責傾向)の方の2パターンがあると思ってます。

が、どちらにもお伝えしたいです。

他責にするのはいいけれど、他責にされた方はどうしたらいいですか?

そこにあったはずの「何か」を返せばいいですか?では、その「何か」は、誰かのせいにしてもしなくても、きちんとそこにありましたか?手に入れられましたか?

違う結論があったかもしれないし、違わない結論もあったかもしれない。

でも。

周囲の人のことを思うのならなおのこと、他責はやめてあげてください。他責にされた方は、ある種とばっちりです。他責だろうが自責だろうが、選んだのはあなたです。

他責にして選んだその道は、ただただつらいことだらけでしたか?すこしでも心救われる時間はありませんでしたか?何か仕事で「これだ!」というものには、巡り合わなかったですか?

本当に選ばなかった道は楽しかったですか?悩み苦しむことはなかったですか?その正解、思い描いていた未来は、今、手に入っていただろう世界ですか。


そこで、タイトルです。


ねぇ、それって、誰のため???


他責で選んでるものがあるなら、今すぐやめた方がいい。何かあった時、みんな不幸になりる。これを一種の「恩着せがましい」とか、「恩を売る」、「恩を仇で返す」とかそういうことになるのかな、とふと思う夜でした。

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