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4.我関せずの父

父のことについてはほとんど知らず、しっかり会話をした記憶がない。少ないがゆえに、全て記すことができそうだ。

父方の祖父母は早くに離婚しており、私が祖父として慕っていたひとは父の実親ではなかった。
血のつながっている祖母を好きだと思ったことは、一度たりとてなかった。子供ながら「変わった人」という印象で、今までの人生で同じような人に出会ったことがない。のちにその奇妙さは、精神病がゆえのものだと知る。

父自体はあまり口数が多いほうではないのにお笑いが好きで、毎週土曜日はよく吉本新喜劇を一緒にみた。
小学5年生のとき、別クラスの多動男児に因縁をつけられたことがある。仮名として、スミダくんと表記する。
お祭りの準備で教室の後ろで友達と工作をしているとき、友人の冗談に対して私が「あんたアホちゃう」と言ったのが、自分のことだと思ったスミダくんが、

「今アホ言うた奴、出てこい」

と怒ったのだ。教室の空気はぴんと張りつめ、水を打ったように静かになった。
そもそもこの時間は授業中で、別クラスのスミダくんがなぜうろうろしているのかという当たり前のことはさておき、ターゲットにされた私は怖くて黙ってしまった。スミダくんは私のもとに近づき、「おまえか」と言った。私は「ちがう」と言い、私の友人も「スミダくんに言ったんじゃないよ」とフォローしてくれたが、彼の怒りは収まらない。
その日の夜、私は初めて「学校に行きたくない」という感情を抱いた。フォローに入ってくれた友人に夜電話をし、「学校に行くのがこわい」と言ったことを覚えている。
両親にも伝えたが、スミダくんが問題児だったこともあり、母はあまり取り合ってくれなかった。しかし、父はすこしだけちがった。
参観日のときだ。父は教室に着くなり、

「スミダって奴はどいつや」

と大きな声で言った。
スミダくんが隣のクラスからやって来て、父が「うちの娘に何言うたんや」と彼に怒った。スミダくんはちいさな声で「何も言ってません」とぼそぼそ言っていた。
感情をあらわにする父をあまり見たことがなく驚いたのと、自分の悩みごとのために行動してくれたことに感動した。

それから第二次性徴気と母からの悪口、不登校が相まって父と会話することがほとんどなくなった。
18歳の冬、大学受験期間。学校に行かず予備校のみで受験対策をしており、精神的にも参っていた私は母との喧嘩が絶えなかった。
「死んでやる!」と私が包丁を手にしたとき、父は自室でテレビをみて笑っていた。その姿を見て、私はばかばかしくなって死ぬことをやめた。私が死んでも、たぶんこの人は悲しまない。そう思ったのだ。
母はその父の姿を見て「自分の娘が死ぬって言うてんのになんでテレビなんか見てんの!」と、めずらしく父に怒鳴っていた。

大きな事柄はこれくらいだ。
私が性被害に遭った際は、父は「学校に通え」、母は「あんたにも非があるわね」と言い、元担任とゼミ担任を驚愕させていた。
最近では私を案じてか、たまに家に来て旅行のおみやげを置いてすぐ帰ることが2回ほどあった。母はこの間他県でバスケットボールの大会があり、時間があまりなくすこしだけ観光したと言っていたが、おみやげはなかった。

母と比べて過ごした時間がすくなく、良い思い出も悪い思い出も母ほどないが、父が母の悪口を言っていることは聞いたことがない。
父は何度か、「会社を辞めたい」と言ったことがあるそうだ。母方の祖父母の自営会社を「継ぎたい」と言ったこともあったそうだ。その時は、まだ生きていた祖母が「よく考えなさい」と諭したそうだが、母は怒り狂っていた。

「自営が楽そうに見えたのかしら。あんたうちの店を潰す気?」

もちろん父本人には言っておらず、父には「祖父母に相談してみたら」と言ったらしい。どうせ断られると思ったからだ。母は自分の意見を祖母に言わせ、自分は傍観者の立ち位置でまたも手を下さず他人を操った。
母の立場上、父の発言に対して怒るのではなく、心配するのが先ではなかろうか。すくなくとも私は、そうした発言をする近しい人間に対してはそう思いめぐらす。

母は「かわいそうな自分」を演じながら、父に精神的虐待をしていた。
この事実にたどりついたとき、うちの牙城のもろさを痛感し、こんな家でまともな人間が育つわけがないとつよく思ったのだ。
まともじゃない人間は、もうひとりいる。私の弟だ。弟は、両親にまっとうに愛されながら父の悪いところと母の悪いところを受け継いだ男だ。両親がまともであれば、私と弟はこんなにも深く仲違いすることはなかっただろう。

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