第17話:「贈る」に含まれる3つの思惑。エシカルな贈り方を考えてみた。
贈ることが好きだ。
誰かのことを思って商品を選んで、それをとても喜んでもらえると、こちらもその倍くらいうれしくなる。
ふだんのその人の行動とか何気ない言葉をヒントに選ぶのは、探偵になった気分だ。
でも逆に、贈られるのがちょっとニガテなのかもしれない、と最近思う。
贈り物地獄のわたしの実家
わたしの実家は、田舎で小さな会社をやっている。
田舎だから、人とのつながりや義理堅さは都会とは全然ちがう基準が適用されていると思う。
実家で好きな車を選んでいるところは見たことがないし、好きな家に住んだこともない。会社で付き合いのあるディーラーの車を買い、付き合いのある建築会社に家を建ててもらっていた。
そういう地域柄だから、当然のごとくお中元とお歳暮の濃厚なやりとりがある。
毎年7月と12月は毎日何かしらの贈り物が届くから、その時期は母は家を空けられないとこぼしている。
旅行などでちょっとでもまとまった期間家を空けると、その後の鬼のような再配達でてんやわんやになるのだ。
中には生鮮品を送ってくれる人もいるから、さらに気が抜けない。
そんなわけで夏と冬は毎年、果物・しょうゆ・油・洗剤・佃煮・麺類・ゼリー・ジュース・お酒・お菓子…といったものの箱が、廊下の脇に山のように積まれていた。
わたしがまだ実家にいた頃は、果物とかゼリーとかジュースをせっせと消費していたけれど、いま実家には父と母しかいない。
だから大量の贈り物の行き場に母は苦慮しているそうで、送料をたくさんかけてわが家まで送ってきてくれる。
父と母は、車や家だけでなく、食べ物までも自分で選ぶことができていない(少なくとも7月と12月は)。贈られてきたものをせっせと消費する日々だ。
母は「商品券がいちばんうれしいわね」と言っている。もっともだ。
贈り物には条件反射でドキッとする
うちの家庭環境はたぶん偏っていて、こんなことは一般的ではないのかもしれない。
でも欲しくもないモノにまみれ、モノにあせらされる家庭に育ったから、どなたかからの贈り物には、一瞬ドキッとするくせがついてしまっていると思う。
もちろん気持ちは最高にうれしいし、ありがたい。しかし、同時に反射的に身構えている自分もいる。
そろそろ変化のタイミングでは
お中元とかお歳暮とか、あとは内祝いとか引き出物とか、おみやげとかお返しとか、体面を保つためのモノの贈り合いは、そろそろ変化を起こすべきタイミングにきていると思う。
そうした贈り物だけでない。ささいなおすそ分けとかでも、一考したほうがいいように思う。
フリマアプリやリサイクルショップは、スムーズなモノの再分配を可能にしているけれど、それはそもそも余剰のモノを消費・生産し続けることが前提に成り立っている。
地球の資源は、そんなぜいたくばっかりしていていい状態にない。
贈られる側の気持ち
気持ちを、モノ以外の別の形で表すことはできないだろうか。
贈ってくださる気持ちは本当にうれしい。でもそれを、わざわざモノに変化させなくてもいい。言葉だけでもじゅうぶんだ。
「あの時こうしてもらったから」と、しばらく経ってから別の行為で報いてくれたって、覚えててくれたのか!と感激すると思う。(でもそんなに覚えてられないよってことで、その場でモノを渡してチャラにするのであろう。)
もしどうしても贈ってくれるなら、そのお金を使って寄付してくれてもうれしい。
もちろん現金や商品券も大歓迎だ。
あとは、自分が欲しいと思っているモノのカタログギフトみたいなのがあって、そこから贈る側が選んで送ってほしい。Amazonのほしい物リストの拡張版みたいなやつ。
贈る側の気持ち
ひるがえって自分が贈ってきたことを考えてみる。わたしは贈るのが好きだけれど、もしかしたらそれだって誰かの心を一瞬硬直させていた可能性だってある。
みんな贈れば「ありがとう!」と言ってくれた。でも本当にありがたいのかどうかわからなかった。でもその笑顔で「うまくいった!」と勘違いしていただけかもしれない。
そしてさっき言った割にはすぐ撤回するのだけど、贈る側としては、代わりに寄付しておくねっていうのも、気持ちを贈りたい方向がずれるからしっくりこない。現金か商品券というのも露骨すぎる気もする。
わたしはただ、相手に気持ちを伝えるとともに、喜ぶ顔が見たいだけなのだ。
答えが出ない
贈りたい気持ち、贈り物、贈られる方法、贈られる人の気持ちや状況。
全てをいっぺんに考えると、どうしたらいいのかよくわからなくなってきた。
でも相手を本当に喜ばせたいなら、何が欲しいか聞けばいい気がする。
問題は、そんなことがざっくばらんに聞けない“気まずさ”のある関係性において生じる。
贈り物がエシカルになればいい?
相手に聞けない、という気まずさをすっ飛ばすためには、贈り物自体がエシカルになれば万事解決だろうか?
でもいくらパッケージが生分解性で、製品がフェアトレードだったとしても、
よくわからない海外の魔除け人形や添加物だらけのハムは、たぶんいらない。
ミニマリストは贈り物にこう対処
ではミニマリストは、欲しくないモノを贈られることに対して一体どのように対処してるのだろう?
ミニマリストの方のブログを読むと、「贈り物はありがたくいただく。必要なければ誰かに譲る。」という方法を取っている。相手との気まずさをスルーできるスマートな折衷案だし、モノをすぐに手放せばミニマリストとしての暮らしも保守できる。
でも不必要な贈り物が発生した時点で、地球には害が及んでいると思う。自分の家というテリトリー外のことは我関せず、というのはあまりしっくりこない。
ただ、「わたしはミニマリストですので」とアピールすることで、自然と不必要な贈り物が防げるようになる、とも言っている。贈る側が忖度するようになるからだそうだ。それはとてもいいと思う。
パリのおみやげで考える「贈る」。実はマウンティング…?
贈る時の心理を、ちょっと深く考えてみた。
海外のテーマパークに行くと、おみやげに買いたいモノがひとつも見つからない問題がよく起きると感じている。
日本のディズニーランドは魅力的なモノばかりで、おみやげを買うことは最大の目的のひとつだ。でもパリのディズニーランドでわたしたちが買ったのは、あたりさわりのないエコバッグだけだった。
お菓子もキーホルダーもぬいぐるみも、おみやげ買いたい欲がかきたてられることがなく、せっかくのパリのディズニーランドだったのに、誰かへのおみやげは結局何も買わなかった。
日本には誰かにあげて驚かせたくなるようなしかけを宿したモノが多いように思う。
パリには確かに人気で魅力あふれるお店がたくさんある。でもそれは、そこの商品が純粋に「いいもの」だから人気なのであって、必ずしも誰かへのプレゼントに適しているからではない。
パリのおみやげにはモノ自体の魅力があり、日本のおみやげはプレゼントし誰かをあっと驚かせる、という魅力があるのかもしれない。
誰かをあっと驚かせたい。それってマウンティングの気持ちに近いんじゃないだろうか?
「へー!すごい、こんなステキなモノをどこで見つけられるの?センス抜群だね。」
「わぁ、パリに行ったんだ!うらやましい。」
そんなことを相手に言ってほしくておみやげを選ぶ気持ちがゼロではないことに、うっすら気づき始めた。
日本の場合、贈る側の気持ちには「誰かを喜ばせたい」の他にも「あげた相手にマウント取りたい」があるのかもしれない。
あとは、「義理」だ。お中元お歳暮も、お返しも、バラマキのお土産というのも、社会的なコミュニケーションツールだ。
「贈る」に含まれる3種の思惑
「誰かに純粋に喜んでもらう」ための贈り物のほかに、社会的コミュニケーション=「義理」としての贈り物、そして「ちょっとマウントを取る」ための贈り物。この3つの思惑が、贈り物には乗っかっている。(他にももっとあるかもしれない。)
こうした思惑にフォーカスしない限り、欲しくない贈り物困っちゃうよ問題の突破口は見えない。
モノに頼らず「相手を喜ばせる」には、
モノに頼らず「義理を果たす」には、
モノに頼らず「相手にちょっとマウント取る」には、
どうしたらいいんだろう?
目的別の対処法
相手を喜ばせたいなら、相手の要望に沿ったモノをあげるのがいちばんだ。あとは親しいなら、一緒に食事やコンサートに行くとか、コト消費をするのもいい。寄付をさりげなく提案することも、関係性によってはできるかもしれない。
義理を果たすなら、なるべくエシカルにできたモノを選べばいいと思う。紙パッケージのモノや無添加のモノ、アップサイクルのモノなど。相手の必要性は問うてないのだから、フリマアプリやおすそ分けでさばかれても最終的に地球に負担なく消費されるモノであれば何でもいいように思う。
マウントを取りたいなら…意外とみんな、この心理に気づいていないんじゃないかと思う。
いまわたしが買っていこうとしているそのプレゼントなりおみやげは、何のためのモノなのかちょっと立ち止まって考えるてみたらいいんじゃないだろうか。
マウントを取るためかも…と気づいた瞬間、恥ずかしくなって買うのをやめる気がする。あるいは買うものの目的を「義理」に変更して、エシカルな商品を選べると思う。
だって「いまからわたしはこのモノで相手にマウント取ります」って、かなり恥ずかしい。
わたしから始める
自分が好きな「贈る」ときには、こうした対処法をためしてみようと思う。
ニガテな「贈られる」の対処法はよくわからない。でも人間関係はうつし鏡というから、わたしが贈ったように相手が贈ってくれるようになったらいいなと、淡い期待を抱いている。
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