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満州から復員した祖父の手記(8/11~30)

終戦時、満州から復員した際の祖父の手記が出てきました。記録としてネットの海に落としておきます。なお関係者の多くは他界しており、本人に了承を取ることが出来ないため、人名等個人を特定できる情報は全て置き換えています。

スライド1


【引用開始】

第二次世界大戦も末期 昭和20年には日本内地ではB29の跳梁に抗すべくもなく、当時 第59期生として陸軍航空士官学校在学中だった我々の操縦訓練は、敵襲が無く、燃料も未充分貯蔵してある満州でと云う方針となった。操縦候補生は5個中隊に編成され、各地の飛行場に分かれて訓練する事となり、我がXX中隊は戦闘分科で、満州東部の牡丹江郊外の海浪(ハイロウ)飛行場に第1・2区隊(*1)、海林(ハイリン)飛行場に第3・4区隊と分散配置。私の所属は第1区隊の為、海浪である。

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話は終戦直前 昭和20年8月11日に始まる。  
真夜中「非常呼集!小銃とエンピ(円匙:スコップ)を持って集合!」

*非常呼集・・・「イザ鎌倉」を想定、時間構わず短時間で集合させる。訓練時には「完全軍装で」とか「マスクを持って」とか色々条件が付けられる。休日の早朝など屡行われた。眠いのに閉口。但し、この場合は、本番。

と叩き起こされ、遥か下の方に牡丹江の流れを見る河畔の台上に“たこ壺”(一人用の塹壕)を掘り、大分長い時間その中で待機していた。その内方針が決まり、全員 通化(満州の南部 朝鮮国境に近い)に移動となる。
当時59期操縦候補生の即戦力化は至上命題であり、操縦教育は5月からユングマン(*2)により始まったが、6月沖縄戦に伴い9月卒業予定を待てず、7月に速成班・継続班・転科(整備又は通信)に改編。
速成班は第1・2区隊とし海浪で高練(*2)による教育へ、継続班は第3・4区隊として海林でユングマンによる教育を継続となっていた。私(佐藤)は第1区隊の第X組(佐藤・鈴木・高橋・田中の4名。教官は伊藤少尉。機名は鈴木の提案で、地名と言われていたのに、‘ありなれ’とし、しかも変体仮名で尾翼に表記)で、その時は既に高練による単独飛行・編隊群(*3)飛行を修得し、私は竹内区隊長を編隊群長とする第1編隊の3番機を担当していた。

 通化への移動は、地上輸送(列車・トラック)を主とし、一部は空輸(高練は特攻機に改装、ユングマンもその可能性あり)を任命された。私は空輸組に指名されたものの、搭乗予定の愛機高練7号機は燃料パイプ不具合(との事)で修理の為、全機出発に間に合わず。結局7号機は伊藤少尉と私、それに整備渡辺兵長が便乗し、8号機は山本少尉・中村・小林(これは7号機に付き合ってくれたらしい)の2機で14.00頃出発。
直前に気象班に問い合わせた所「向かい風が強く、通化までは無理」と言われたようである。
まして燃料は、ガソリン節約の為、訓練時にはアルコール混合燃料を使用するので空燃比を濃い目にするよう燃料噴出口を少し大きくしてある。出発時87ガソリン(オクタン価?)を満タンにし「純粋だぞ!」「性能保証だ!」などと喜んでいたが、実は濃い目になり燃費は悪い。この面からも燃料不足になる方向である。
 漸く出発はしたものの、間もなく右下方に小型機が数機一列になって急降下しているのが見えた。ソ連機?と疑心暗鬼を生じ、ソレッと山間を右に左に縫うように逃避。山塊を抜け、「ホッ」として羅針盤(コンパス)を見たところ旋回を繰り返した影響で、グルグル廻って、南も北もない。それが大体収まった頃、大きな湖に出た。鏡泊湖であろうか? と、突然エンジン音が不調になり「ボスッ!」「ボスッ!」と鈍い音と共に、排気口から黒煙と時折火焔を吐き、プロペラの回転が変調となり、高度が次第に低下していく。燃料が濃過ぎる為パワーが落ちたからであろう。レバーや調整レバーを色々と弄くっている間にも高度は少しずつ下がり、水面近くになった辺りでどうやら復調。
敦化を経て吉林を目指したが、飛行場を発見できず、止むを得ず南へ向かう。
樺甸(カデン?)辺りで燃料系の針0を指す。不時着を決心。9号機は土手をスレスレに越え、電線の下をくぐり絶妙の強行着陸。満州国軍の第17工兵隊の営庭だった(銃剣術の大会だったらしい)。その後、すぐ続いて…と思ったが、「日の丸」マークのついた飛行機に喜んで(?)人が沢山土手の上に集まり、旗やら何やら振り回して大騒ぎ。
已む無く追随は諦め、河原を目指した(街は河の合流部にある)。が、2本の河の合流点にある河原の一方は牛やら豚やら、もう一方は何人もの子供達が遊んでおりそれもならず、遂に高粱畑に決める。着陸復行2回(フラップを戻すと50m位落ちる)、3回目には狙った地点に上手く着陸出来そうに思えた。ところが、高度10m位で着陸しようと機首を上げ始めた(3点着陸の為。滑走路に両脚と尾輪の3点を同時に着けて着陸する事)途端、燃料が切れ、「プスン」とプロペラが真横一文字に停止。地面が急激に接近する「アッ!」と思った瞬間、「ドーン」と衝撃があり、目の前は全面真っ青な空。次の瞬間、地平線が勢いよく上がって来て後方へ。つまり落下して脚を着き、大きくバウンドして失速墜落し、デングリ返しの裏返しとなった次第である。  
その最後の一瞬には、教えられた通り、操縦桿を(胸を突かないよう)右手前に引き、同時に左手で点火栓(スイッチ。計器盤の左上にある)を閉(オフ)にした(火災を防ぐ為)。教えられた通り、チャンとやったのは大したものである。併し、考えてみれば、燃料は0であり、火は出ないはず。ま、兎も角操作はした。ところが、携帯して行った軍刀が、伸ばした左手を押さえる形で左脇に挟まり、引いた操縦桿は引かれたまま固定して、逆に右手を押さえつけ、動きが取れない。   
いち早く脱出した伊藤少尉の「佐藤!佐藤!大丈夫か!佐藤!」と叫ぶ声が聞こえる。「大丈夫!大丈夫!」と言いながら、頭で天蓋の風防ガラスを割り、助けられながら漸く這い出る。同乗の渡辺兵長は、胴体の中で、荷物を詰めたパラシュート鞄の上に腹這いになっていたのが、裏返しになった為気絶していた。
脚を空に突き上げて裏返しになっている愛機を「脚はデカいな」と見、「助かった」という思いと「一機ダメにしてしまった」という思いがコンガラガッテ、「あーあ!」という感じでボーっとしていた。そこへ二・三騎の将校(?)と十数人の兵隊が救助に駆けつけ、言葉はよくわからないが、丁寧な態度で兵舎まで連れて行ってくれた。その隊の副官と思しき将校は日本語が達者(と云うより日本人ではなかったか)で、大助かりであった。この時、直接面倒を見てくれた上等兵(臨時の当番兵?)がタバコ“極光”(日本の軍隊の“誉”に相当。20本入り)の封を切って一本突き出して勧めてくれた。慣れているような手付きで抜き取ると、パッとマッチを擦ってくれた。スーッと咳き込みもせず一服したが、これが19歳での初タバコ。以後45年間付き合う事となる。
この日は町の日満旅館という旅館の畳敷きの部屋で、工兵隊の将校連と我々とで盛大な酒盛り(副官は居たが、隊長は?)。ビール瓶と一升瓶をズラーッと並べて大騒ぎ。この日は其の儘ここに泊まる。

8月12日
 朝、鉄道駅のある磐石まで延々とトラックで送ってくれた。このトラックは特別に都合したものらしかった。荷台でガタガタ揺られて行ったが、なんともアルコール臭い。聞いた所、燃料はパイチューだという。酒好きの伊藤少尉は、これを逃がさず、到着するや否や燃料タンクから一升瓶(よく持っていた)に口元まで頂戴する。
 磐石では憲兵隊で昼食を頂き、鶴屋ホテルに世話して貰う。ここも畳の部屋であった。例のパイチューをコップに少しずつ分け、皆で飲もうとしたが、臭くてとても飲めない。と、伊藤少尉が皆のコップのパイチューを丼に空け、「さー!誰か飲め!」と言う。辟易して誰も飲もうとしない。最後にお鉢は、直系の弟子の私に廻ってきた。
止せばいいのにオッチョコチョイが粋がって「エーイッ!」と一気に飲み干し、その上、カッコつけて「タバコ!」。双猫牌(左右対称の招き猫のマークの強い煙草。一服するとスーッと口元まで茶色になる)を一服。吸い込んだ途端、フラフラッと目を廻して人事不省。

8月13日
 昼頃になってやっと目を覚ましたが、夜中に小間物屋を2~3回開いたらしい(小間物屋を開く:嘔吐する)。伊藤少尉が責任を感じたか、介抱に大童だったとの事。それからノソノソと磐石駅に来たが、列車がまともに動いている様子はない。日影でボンヤリ腰を下ろして待っていたが、偶々目の前を天秤を担いだ瓜売りが通りかかった。そこで、近くにいた子(7~8歳位?)を呼び、瓜を2~3個買って来るよう5角紙幣を渡した。(予科時代に習った北京官話が通じた!のである。)すると、その子は、瓜売りに声を掛け、荷を降ろした所で紙幣を見せたが、見せただけで仕舞いこみ、瓜を一つずつ取り上げ、重さを確かめ匂いを嗅ぎ更に指で叩いて確認しながら、3個選び出した。そして、お釣りを先に受け取ってから、やっと紙幣をわたした。その様子を見て痛く感心すると共に、反省させられた。勿論お釣りは、その子に。
その内、ホームからは外れた場所に停まっている列車が通化に行くらしいと分かり、「それっ!」と乗り込んだ。ところが、デッキ(乗車口にドアは無い)から客室に入ろうとドアを開けたら、振り向いた全員が女性。吃驚して反対側のドアをあけたら、こちらも全員女性。仕方なくデッキに座り込んで待っていた。 
 列車が走り出して暫くすると、一人のガッチリした中肉中背の男性が通りかかった。30歳一寸位に見えたが、お目付け役として日本から派遣された人であろう。背広の前を開いて、両脇左右・腰の左右・腹の前に2挺ずつのピストルを見せながら「この女性達は宮廷(つまり大奥)の人達で、この次の次の箱には溥儀皇帝が居られます。」「この列車は通化に行く予定である。」と教えてくれた。
折角お召し列車に便乗出来たのに、暫く走ったら梅荷口(梅花口?)の駅で停車し、中々動かない。そこで、他の列車を探して乗り換え(此処で乗り換えなければ、溥儀皇帝共々ロシアに拉致されていた所である)新通化に行く事ができた。
{牡丹江の約200Km北にある杏樹で訓練中の22中隊の略半分はシベリアに抑留された。}
偶々、新通化で道を尋ねた男性が、満鉄[南満州鉄道(株)]の社員であって偶々伊藤少尉と同郷(福岡?或いは同じ学校の出身?)と云う事で話が合い、通化に戻り、満鉄の社宅に泊めてもらう事になった(疎開した社員の空き部屋)。勿論、その晩は、酌み交わした事は、言うまでもない。

8月14日
 新通化に行き渡し舟で飛行場に行く。中隊は途中の農園にあった。仔牛のような大きな黒豚に驚いている我々を、大きな向日葵が迎えてくれる中、漸く原隊に合流出来た。
8月15日  衛兵勤務
  16日  無為
  17日  編成替 指揮班第1分隊第5組 その長となる。
          構成 加藤軍曹・吉田上等兵・山田工員
       午後集合してラジオを聴く。内容はハッキリしないが、どうも 手を上げたらしい。間も無く「中隊は直ちに内地に帰還する」と云う方針が示され、出発準備に掛かる。つまり、僅かな身の回りの物以外、涙を流し乍ら官物・私物全部焼却する。
  18日   小銃を5~6挺ずつ毛布に包み、各人実弾を200発(前50+50、後100)ずつ携帯し、駅に行く。貨車に詰められ、石炭の上に座る。
      通化出発 14:05
  19日  平壌 夜 通過 釜山迄乾パン1食分と、機関車に給水する為の水で過ごす。
  20日  京城 通過 日章旗の回りに何か書いてある旗(韓国の国旗でした)を振り回して何か叫んでいた。
  21日  釜山 着
      貨物船が停泊、豆粕その他を積み込み中。2~3日掛けて終わらせ、出航する予定との事。そこで、我々が手伝い、早く終わらせようと話を決めたらしい。
【伊藤少尉が何処からか日本酒一升瓶を探し出して来たのを3人で空けた。もう一人は鈴木(同じ第X組で、これが分かったのは、なんと57年後、鈴木を慰問する為、佐々木・山口と札幌で飲んでいる時。サッカーW杯で、日本がロシアを破った日だったが、本人がケロッと白状。H14.6.9.)だった。】
  22日  出航 15.30
  23日  出航後 航行禁止令が出た為、萩に行く予定だったらしいが、変更され博多に入港。港で着の身着のまま野宿。朝、目を覚ますと、抱えて寝ていた小銃に露が降りていた。
  24日  野宿 食事は大鍋で米を煮て、醤油を掛けて食べた。
  25日  空き家に入る。 
  26日  暴風雨の中を出発。無蓋貨車にて博多09:00発。ずぶ濡れとなる。
  27日  貨車乗車のまま、広島を望見。全くの焼け野原、コンクリート の箱数個のみ。     
      昼 米原 着、弁当が配られた。このご飯の美味しかった事。
      ここから東海道は危険ではないかと、北陸回りで行く。
  28日  直江津より信越本線にて清水トンネル経由、夜 高崎
  29日  大宮より川越線にて高萩。行軍で帰校。 30日解散・復員 

【終了】

*1  区隊:約50名(予科は約40名;本科の地上兵科は兵科によりマチマチ)1個中隊は4個区隊 区隊長は大尉、その他操縦教官として少尉級11~2名。

*2 訓練機:1. 4式基本練習機(通称 ユングマン)
        ドイツ製スポーツ兼練習機 複葉・布張り 乗員2名
        全幅7.35m 全長6.6m 全高2.3m
        倒立4気筒110馬力エンジン 木製固定ピッチ・プロペラ
{その為、雨などで濡れると、翼・胴体は弛むだけでなく、プロペラのピッチ角が小さくなる為、エンジンの回転を上げても、速度は上がらない。}
                           離陸速度 90Km 最高速度 180Km/h 巡航速度 120Km/h
      2.九九式高等練習機(通称 高練)
        九八式直接協同偵察機を練習機に改造 低翼単葉 固定脚
        全幅11.8m 全長8.0m 全高3.6m 乗員2名
        空冷星型9気筒 510馬力 2段可変ピッチ・プロペラ
        最高速度 350Km/h 巡航速度 220Km/h

*3 編隊群:・・・1編隊3機、3個編隊9機で構成。 編隊群長機の僚機の位置は正確を要し、不正確であると第2・3編隊の位置がずれ、編隊群全体の形が歪み、弱点を突かれる。特に3番機は単発機の場合、長機を右に見、操縦桿は右手、レバーは左手の為、身体が捩れるので狂い易い為、2番機より難しい。

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