「不登校になっちゃった」ってザワザワされたはなし。
小学校五年生の秋に二回目の転校をした。
一年生の時、父がわたしの幼稚園の担任の先生だった人と結婚するために離婚した。以来、弟と母との三人暮らし。三年生の時に養育費の減額を求める裁判を起こされ、その際に父へ住所が伝わってしまったことを母が懸念して二回目の転校となった。
でも、いま振り返ると四年同じ場所に住むことはなく二回目の更新の前にいつも引っ越しをしていた。ひょっとしたら母は飽きっぽい、もしくはリセット癖のある人だったのかもしれない。
二回目の転校先はギリギリ都内、町田。
二クラスの小学校。支援級もない。外国人もいない。みんなランドセルを背負っている。この学校ではじめて聞いた『シンショー』という言葉が何をさすのか分からなくて、分かってからはとてもショックを受けた。大人になって振り返ると、触れる機会に乏しく知る機会がなかったんだろうと思う。
転校前の学校は、米軍ハウスのすぐ隣にあってハウス内から通う外国人の子どももいた。クラスに一人二人外国人がいて、支援級に在籍する子も通級していて。年齢が違う子も。『自分と、もしくは他人とは違う部分がある』というのが当たり前だと思える環境だったけど……。
転校後の学校のクラスメイトたちは、思春期真っ盛りで男子と女子が関わることがなく、人と違う部分を見つけてはそれを理由にコソコソ話をして笑いあい、近づくとお互いを引っ張り合いながら波のように引いていった。
前の学校では転校生は人気者だったけど、そこでは違った。
リュックで登校していたけど、ランドセルに戻した。シャーペンを使っていたら「禁止なのに持ってきてるよ」とコソコソ話している声を聞いて、鉛筆を買ってほしいとお願いした。カラーペンに制限は内容で、女子のポーチのような筆箱にはカラーペンがたくさん入っていた。
どんなルールがあるのか誰も教えてくれないし、聞いても無視されて、大きなコソコソ話から察してルールに沿う努力をしたけれど。体操服は買い換えなかった。真っ白な体操服の中で、袖がブルーの体操服と紺のハーフパンツ。これもコソコソささやかれた。まだ女子はブルマの子も多く、男子は白いズボンを履いていた。
わたしを避けない人は、ごくわずか。
クラスの中では「〇〇菌」と言われて、近くを通っただけで机をガタガタ引いて泣き出しそうなほど嫌悪した視線を向けられることもあった。たいていは少し離れたところで何人か固まってニヤニヤ笑って、大きなコソコソ話をされた。
それも五年生の間は給食があったので真面目に学校に行った。遊び相手がいなくて、暇を持て余して少し勉強をするようになった。二年生の時に病気になって以来『服用している薬の影響』として日中眠ってしまうこともあったけど許されてしまっていたので、成績は良くはなかった。でも転校後の学校では病気のことも薬を服用していることも、親の方針で伏せていたので周りと同じように授業を受けなければならなかった。
算数はルールに沿って解けばいいだけなので苦労しなかったけれど、国語は漢字の書き取りを覚えなければならなくて、それまで真面目に取り組むことがなかった。読みは本を貪るように読んでいたので読めたけれど、書取りはとたんにぼんやり字が輪郭を失うようで苦手だった。
まだ近所のどこに図書館があるかもわからず、どうしようもなく暇になったので翌日の小テストで出る漢字を家で書いてみた。十個の漢字をそれぞれ五回書いて、自分でテストしてみる。三つくらいしか書けない。赤鉛筆で書けなかった字を書いて、三回書取りをして、またテストする。十個全部書けるようになるまで、これを五回くらい繰り返してテストに臨むと、漢字の小テストは満点をとれるようになった。だんだんと、ぼやっとしか思い浮かばなかった字の輪郭が分かるようになってきて、自己テストの回数が減った。見えなかったものが見えるようになって、勉強って、面白いかもなと感じた。
学校には休まず通っていたけれど、久しぶりに持病の通院で検査があって学校を休んだ。県内、関東規模でもかなり大きい病院で、いつも混みあい待ち時間がとにかく長い。通常の通院では血液検査と尿検査、診察、会計、処方(当時はまだ院内処方だった)で半日近くかかってしまう。以前だったら給食後に早退して受診したり、一時間目のすぐ後に病院へ行って給食に合わせて学校に戻ることもできたけど、距離も少し遠くなってしまった。通常の通院内容に加えて、この日は脳波の検査もあったのでさらに拘束時間が長くなる。しかたなく一日学校を休んだ。
翌日、教室に入るといつもとはちょっと違うざわめきがあった。不思議に思うものの、気軽に話せる相手もいない。自分から話しかけてその子に何かあっては悪いと思って積極的には話しかけないけど、ときどき話す子がいた。その子が「もにょ、大丈夫?」と話しかけてくれて、何があったのかが分かった。何についてだろう。学校でのしんどさなら常に大丈夫ではない。
「もにょがきのうお休みしたから、いじめのせいで不登校になっちゃったって、大騒ぎだったんだよ」
これ、いじめの自覚があってやってたんだ。びっくり。
病院に行ってて休んだんだよと話すと安心していた。
「体調悪いの?」
と聞かれ、これもまた返答に困った。病院に行くことがイコール体調がよくないならば体調がよくないことになる。でも常に具合が悪い訳でもないし、かといって病気があることを話せばまた『〇〇菌』の影響度が上がってしまう。この時「みんなはずっと病院に通って検査して薬を飲んでって、そういうことはないんだなぁ」と、ぼんやり気が付いた。
濁して返事をしてしまったけれど、三か月ごとに通院があるし、半年ごとに時間のかかる検査があった。みんながざわざわ動揺したのは、たぶん最初の一回だけだったと思う。
結局、このことがきっかけで大きく周りの様子が変わった……とまでは言い難いけど、少し接し方は変わったと思う。「そうなったら怖い」という思いが芽生えたのかもしれない。意地悪な気持ちからではなくて、みんなただ何かを怖がっていただけだったのかもしれない。
いじめ。
に、あっても学校に行ってたのは給食があったから。朝ごはんがない家だったから、ご飯が食べたければ学校に行くしかなかった。
六年生になって給食室の工事が始まり、給食提供がなくなってしまった。仕方なく六年生から四年、五年ほどお弁当を作った。弟の分と二人分。材料もないから、本当にどうしようもないものしか用意できなくて、いつもお弁当のことで頭を悩ませていた。
給食がなくなっても学校に行き続けたのはなぜだろう。長距離を走っていると感じる、一度立ち止まったり歩いたりして、もう一度走り出そうとするときにとても負荷のかかる感じ。あれが怖くて、たぶん休めなかった。休んだらもう、どうやってまた行き始めたらいいのかわからなくなってしまう。そうなった時に、支えてくれたり許容してくれたりする家庭ではないともう感じていた。高校を卒業したらすぐ家を出ないと、たぶん生きていけなくなる。死なないために、家を出ないと。死なないために、学校に行かないと。そんな思いだったんだと思う。
十五年くらい経って、同窓会があった。
泣きながら謝ってきたクラスメイトがいた。一番ひどく、わたしに怯えていた男子。影響力があるように見えて、たぶんすごく怖がりだったんだと思う。少し遅れて会場に入った時にはもう泣いていたので「出来上がってる」状態だったんだと思う。それでも「自分のしたことを覚えていたんだ」という驚きとともにおかしさが湧き上がって、許してしまった。感謝せよ。
許せたのは家庭環境が、決していいものじゃなかったからというのが大きい。学校も地獄。家も地獄。学校の地獄のほうが、まだかわいい。家からは大人になるまで逃げだせない。
あのままもし、不登校になったらクラスメイト達はどうしたんだろう。
たった一日いじめていた相手が休んだだけでざわついてしまう繊細な子たち。それでも『〇〇菌』を恐れて怯えたり、コソコソクスクス固まって距離を置く。みんなで同じものを使っていないと安心できない。何がそんなに怖かったんだろう。
そもそも自分には「みんなと同じになりたい」という気持ちがたぶん足りなかったのかもしれない。以前の場所ではあったものがいろいろとなくってしまって、あるのは思春期のピリついた空気。精神年齢がたぶん二学年くらい低くて、どうして男子と女子が分かれて行動したがるのかもわからなかった。女子の話はよくわからなくてついていけないし、じっとしていてつまらない。カラーペンも音楽も芸能人も興味がなかった。
地味でいてもいなくても同じ――ほどに普通のつもりだったけど、周りが興味のあることに同じテンションで飛びつけなかったということは、自認していたほど普通でも、普通を装いきれてもいなかったのかもしれない。かと思えば久しぶりに開いた小学校のアルバムでは、もう他人に思えるほど過去の自分に見るに堪えないほどダサいという印象もなくて不思議だった。
たぶんこの先も「よくわからないなぁ」を繰り返して生きていくのかも。でも生きている時間が長くなると、時々答え合わせをできる瞬間もあってよくわからない他人の輪郭が見えてくる時がある。複雑で、突き詰めるとでもすごくシンプルで、やっぱり人間ておもしろい。