その蕩けるような甘い声が
妊娠中、乳幼児から預けられるショートステイ先を探していた。
当時まだまだ元気だったけれど祖父は九十近かった。どう考えてもそう遠くなく葬儀日が来る。それは避けられない。その際に子ども預けられるところを探して、『こどもショートステイ』を知って安心した。頼れるかもしれない先がある、ということを知っているだけでも心強かった。
冠婚葬祭なら、普通は子どもを連れて行くものなんだと思う。
でも子どもを守るために連れていけない事情がある。
小学校一年生の時に両親が離婚した。
これは大変な騒ぎになり、離婚の話し合いは数か月にわたって行われた。とても複雑な内容なので、両親の離婚については別の機会に。
離婚後は母親と弟と三人暮らしになった。祖父母のいる青森に帰るものだたと思っていたけれどそのままこちらに留まることになった。町田市から相模原市に引っ越し、小学校高学年の頃にまた町田市に引っ越した。
三人での生活は苦しかった。
母と弟はべったりで、いつも仲間外れにされる居心地の悪さがあった。
母の仕事が忙しく、日付が変わってから帰宅することも多かった。なので夜ご飯は母がテーブルにお金を置くのを忘れていなければ食べられるけど、忘れていたら食べられないまま過ごすしかなく、空腹のあまりに生の米を食べたこともあった。
入浴や歯磨きといった基本的な生活習慣も乱れ、洗濯が追い付かず毎日洗濯された衣類を着ることができない。弟は眠っていたけれど、母の帰りを待つために深夜まで起きていた。たいてい機嫌が悪く、ちょっとしたことで激しく怒られたり叩かれたりすることが多かった。それでも朝も母が家を出て玄関が閉まる音で目が覚める、どうしようもない不安感と寂しさを埋めたくて夜は起きていた。毎日、切れてしまいそうなロープの上で綱渡りをしている気持ちだった。
母が朝ごはんを食べない派なので朝ご飯はなかった。食べたいなら自分で用意して、と言われて嫌な顔をされたので、食べたいというのが難しかった。自分で用意するのはできるけど、たぶんお金がかかるから嫌なんだと思った。一日の中でしっかり食事がとれるのは給食の時間だった。
給食の提供が終わると、次に給食が始まる前日まで青森に預けられる。
夏と冬は青森にいた。一年の内、二ヵ月ちょっとは青森で過ごしていたことになる。青森はとても安全だった。祖母は給食の調理師をしていた。庭の半分が畑になっていて、食べ物がいっぱいあった。漁港に務めている親戚が余った魚を三日に一度は持ってきてくれた。食べて、寝て、入浴や歯磨きもできて、毎日洗濯された衣類を着ることができた。勉強や夏休みの宿題も、祖父に見張られてたいてい七月のうちに終わってしまう。
畑の世話をして、収穫後は小屋にある竈でトウモロコシを大量に湯がいたりした。薪に火を移すのにどんな風に組めばいいのか、種火に何を使ったらいいのか、空気を送り込むときの息の吹きかけ方とか、そういったことを生活の中から学んで……バーベキューの時にちょっぴり役に立ったりする。ちょっぴり。
夏の間に身長が十センチ近く伸びることもった。祖父は初日と帰る前日にわたしたちの身長と体重を計り、増えたことをいつもとても喜んでいた。青森の家には、母と伯父の身長を記した食器棚があった。そこにわたしたち兄弟と従兄弟たちの身長も刻まれている。
夏と冬、年に二ヵ月ちょっと。
安心と安全と成長する機会をくれた祖父母は、わたしにとって親のような存在だった。曾祖父母も高校卒業するころまでいたので、なおさらそう感じるのかもしれない。
でもだから、最期の時はその場にいたいと思っていた。
祖父が亡くなる数ヶ月前、電話で話したのが最後の会話だった。
今思えば入院する直前だったのかもしれない。体の調子を聞いても、その時侵されていることが分かっていたはずのがんについては全く教えてもらえなかった。「今の家族を大事にしろ」「もう母親には関わるな」「自分の人生を生きろ」といった主旨のことを言われた。
喋るようになった息子とも話をして、蕩けるような甘い声で喜んでいた。その声はとても懐かしく、かつて自分が子どもの頃祖父にかけられていた声だった。いつのまにか孫と子の間のような関係になり、もうずいぶん長いこと聞いていない声だった。それを息子がまた聞かせてくれた。この喜びを言葉にして表すのはとても難しい。もう会えないと思っていた人に、再会できたような心地だった。
最後の電話から遡ること二年、五カ月の息子を青森に連れて行った。
祖父も祖母もとても喜んでいた。認知症が進んで不機嫌な様子が増えた祖母も、息子と関わっているときには笑顔が絶えず、幸せそうだった。
足を悪くしてパッタンパッタンと特徴的な歩き方になっている祖父が、痛む足を押して「空気の入れ替えをしてくる」と言って息子を抱えて畑を歩いた。とても重く固く、身の詰まったずっしりした赤ん坊だったので抱くのは大変だったろうに、それでも嚙みしめるように「空気の入れ替え」を味わっていた。
当然、この時のことを息子は憶えていない。
でもこの時撮ったたくさんの写真をAmazon Photoに上げて、プライムビデオのスクリーンセイバーにしているので息子もよく知っている。息子はわたしの祖父母を、自分の祖父母だと思っている。息子の見る写真に、息子から見た祖母、わたしの母の写真はない。会ったこともない。生まれたことは知っていると思うけれど、自分からは伝えていない。世の中には安全ではない大人もいる。息子の安全を考えると、会わせない方がいいと判断して。どうかこのまま会わずに済みますようにと祈っている。
祖父は九十一歳で亡くなった。もう五年くらい、生きていて欲しかった。ずっと、その時が来たら息子をショートステイに預けて葬儀に行くつもりでいた。でも本当のいざその時は、激しい咳を伴う喘息をこじらせている真っ最中だった。コロナ禍でこれだけ激しい咳をしていたら、コロナではないと分かっていても周囲や親せきを不安にさせてしまう……と悩んでいた時、息子が嘔吐してそれどころではなくなった。時期も悪く年末年始の新幹線はそもそも切符がとれなった。
最後くらい、感謝の気持ちを込めて見送りたかった。
祖父を失って世界の灯が一つ消えてしまったような頼りなさと、行きたいのに行けないじっとりした悔しさで暗く重い気持ちにもなったけれど、祖父が「来るな」と言っているような気もした。葬儀に行けば、母には間違いなく会う。葬儀に行かないことを不義理だと言うような人ではない。自分の行きたい気持ちを抑えて、祖父の言葉を嚙みしめる。「今の家族を大事にしろ」「もう母親には関わるな」「自分の人生を生きろ」。たぶん、祖母の葬儀の便りは来ないような気がする。
妊娠中に息子を守るために調べたショートステイ。使われないまま祖父の葬儀は終わり、今のところもう次の予定はない。祖父の言葉に重きを置くなら、たとえ便りが来ても祖母の葬儀には参列しないかもしれない。
スクリーンセイバーに祖父が映ると、電話の向こうの蕩けるような甘い声を思い出す。
自分が大切にされていた記憶が巡り、その甘い声が自分に向かなかくなったことに成長を感じる。そしてその甘い声が息子に向けられていたことをずっと覚えている。ずっと、ずっと。