甘え。
先日、友人と話していて、大学卒業後のことが話題になった。
私は、教員になりたいと考えている。
もしそうでなくても、こどもに携わる仕事がしたい。支援のネットに引っかからなくても助けを必要としていたり、生きづらさを抱える子は数多くいる。支援を必要としている子はもちろんだけど、生きづらさを抱える子たちが生きやすくなることは難しくても、少しでも息がしやすくなれば。
「具体的には?」と聞かれて、いくつか例を挙げたときに友人が冒頭の言葉を発した。
そう言いたかったけど、言えなかった。
他人に対してだったらそう思えるのだが、例として挙げた子たちにどこか自分を重ねていた節があったから。自分に対しては「甘えだ」「自分が悪い」「人のせいにして」という思いが拭えない。やっぱりそうだよなあ.…という納得と、でも私が出会ってきた彼らは「甘え」なんかじゃないという反発。その二つに挟まれて言葉に詰まった私に、友人は慌てて「批判しているわけじゃなくて、単純に疑問に思っただけ」だと付け加えた。
しかし、私は「まあね、でもそうだと思うような子はいるよ」と、あろうことか、自分が例に挙げた子らを否定したのだ。そして、話をそらした。
やってしまった。
帰り道、後悔が止まらなかった。彼らはすでに何度も何度も「甘え」という言葉に傷つけられてきた。今も彼らを呪う「甘え」という言葉を使って彼らを否定したのだ、私は。
なんてことをしてしまったのだろう。自分の中にやはり彼らを否定する思いがあるのではないか。あの時何といえばよかったのか。どうしたら「甘え」でないと伝わるのか。
そうして苦しみ、悩み続ける中でふと気づいたのだ。
そもそも、おとなでもこどもでも、甘えることって悪いことなのだろうか。特にこどもは無条件に大人に守られていい存在だ。そして、大人はこどもを守る義務があると思っている。ある人が私にそう教えてくれたのだ。それ以来、その思いを大切にしてきたつもりだ。大人たちに「私を守れ」と言いたいわけではない。むしろ今の私には、こども側としてその言葉を受け入れることなど到底できない。それでも、自分が大人になったら忘れずにいようと。一番大切にしていたいと。そう思っていた。そうだ。そのとき彼女は最後にこう言ってくれたのだ、「だから甘えていいんだよ」と。
もし彼らが十分に甘えを得ることができなかったなら、周囲の大人がそれをできる限り補うというのは自然なことではないか。甘えられる=安心できる 事だと思う。「過剰に甘やかせ」といっているわけではない。見ててくれている、失敗しても嫌わずにいてくれる、見捨てずにいてくれるという安心感。信頼関係に近いのかもしれない。そのような人や場所はすべてのこどもに与えられるべきものだ。
大人になると、一人で生きていかなければならない場面もある。10代の彼らは、あと60年、70年も一人で生きていかねばならないのだ。某CMの「人生100年時代」に対して湧きあがる、「あと90年も苦しまなければならないのか」という絶望感。
それなら、10代の間が少しでも生きやすくなることで、少しでも力が蓄えられたら。その時期に自分自身と向き合わざるをえなくなることもあるだろう。大人にとっても過酷なのだ。まして、10代の狭く小さな世界に生きる彼らがたった一人でそれに立ち向かうなど負担が大きすぎる。そんなときに、どこか一か所でも一息つける場所があってほしい。
また、反対に、そのような場所や人に出会えたからこそ自分と向き合う準備ができるかもしれない。
私自身、こうしてnoteに書けるようになったのは私を認めてくれる人に出会えたからだと思う。それまで気づかないふりをして、蓋をしてきたことと少しずつではあるが向き合えるようになってきた気がする。それはすごく苦しい作業だし、なんなら気づかなかった時の方が楽だった。ときには今の自分では抱えきれないほどのものがでてくることもある。
それでも、いつかは向き合わざるを得なかったのだろう。それなら、それが今でよかった。人の協力を借りて少しずつ整理をし、自分の手には負いきれないものは「未来の自分」に放り投げる。いつかそれを扱えるようになるまで。それも彼女に教えてもらった事だ。未来の自分に託す、今の自分の手から放すこと自体も難しいことだし、定期的に戻ってきてしまう。そのたびに「未来に投げとこう」という言葉をもらい、手放す、という練習を繰り返しているところだ。
もちろんすべてに人間が10代のうちに向き合い始めろ、とかいうわけではない。一生向き合わずにいられるなら構わないと思う。ただ、向き合わざるを得なくなったとき、向き合おうと決めたとき、そのタイミングとなれる時期は多いに越したことはない。
しかしこれらは、あくまで素人の理想論にすぎない。専門知識も何もない、未熟な人間の夢物語だ。
「根本解決ができるとは限らない」「共倒れになったらどうする」「依存されるぞ」「一人にだけ構っていられない」
問題は山のようにある。けれども、根本解決ができないからといって何もしなくていいわけではない。むしろできないからこそ、避難できる場所が必要なのではないか。共倒れやら依存やらは周囲の大人たちが協力して気を付けていくべきことだと思う。
理想論かもしれない。夢物語かもしれない。それでも、できるだけそれらを現実にしたい。だから私は学び続けたいし、考え続けたいのだ。
現実でもニュースなどでもSNS上でも、様々な場所で「甘え」という言葉で他人から、時には誰よりも自分自身から攻撃されて苦しむ子供がいる。彼ら、特に自分より年下の子で苦しめられている子を目にすると、力いっぱい抱きしめてあげたくなる。そして、わたしがもらった言葉を伝えてあげたい。「あなたは守られるべき存在なんだよ。甘えていいんだよ。それに引け目を感じる必要なんてどこにもないんだよ」という言葉を。
この文章は自分が大人側に立って書いたものだ。そうするとすんなり書けるのに、18歳というギリギリこどもである自分が出てくると一気に混乱する。「被害者面するな」「お前は違う」「甘えんなよクズ」「悲劇のヒロインは楽しいか」そういった声が聞こえてしまう。その言葉に100%従うと今度は、「結局他の子に対してもそう思っているんだろう」「ほら偽善者だ」となってしまう。
前者の声を否定することはどうしてもできなかった。だから、今回は自分をこども側に含めずに書いた。これは、今の自分では扱いきれないことなのだろう。未来の自分に投げられたかはわからないけれど、少なくともこのnoteを書いている間だけは手放していられたよ。
先日書いたセンターの休館が3月末まで伸びた。突然増えた2週間。指折り数えてあと片手の指だけとなったのに、いっきに足の指を使っても足りないほどになった。何も感じない、考えないようにはしているけれど、その事実だけはどこかで吐き出したかったので最後に書いておく。