きょうだい児だったかもしれない#1
最近、私は当事者であり、ままならい事が多いながらも、子供達のケアだけでなくASD傾向の強い夫のケアもしてきて、ケアに倒れたのではないかということがわかってきた。そして夫の母のケアも、そして子供時代も親と兄のケアを。ケアの人生だったのかもしれないということがわかってきた。もちろん、ケアもされてきました。(だから今日も生きている)
頭がパンクしそうになるので整理してみる事に。まずはきょうだい児としての経験について‥
適切なケアからこぼれた人達
私の14才離れた兄は、おそらく何らかの強い発達特性があり、酷い2次障害を起こしていて、私は当事者でありながらも実はきょうだい児だったかもしれないと最近確信している。でも確かめようがないのでただの予想である。私の覚えている限りでも、彼は暴走族になったりアルコール中毒になったりギャンブル中毒になったり、ヤクザやサラ金絡みのトラブルは絶えず、マルチ商法で借金も絶えず、お金を盗み盗まれ、仕事を常に転々とし、保険金詐欺にあい命を狙われ命からがら夜逃げをしたこともある。波瀾万丈な人生を送っている。彼にもケアが必要で適切な支援が必要だけれど親がそれを許さないし、おそらく彼もそれに同意することはないだろう。私は兄といると身の危険を感じるし信頼はできないし自分を傷つける対象なので、離れている。何の適切な助けも得られずずっと生きている兄や両親にはその状況が気の毒だし、彼らも一人一人ケアが必要とは思うし、彼らもその一端を漠然と私に求め続けているけれど、私は自分と子供達を守るため、全力でできる限り距離をとっている。よく「家族なんだから」「きょうだいなんだから」という言葉を聞くけれど、私にとってはそれは呪縛のようで「家族と距離をとることへの非常識さ」「親不孝」「恩知らず」の圧を感じ、今でも罪悪感で苦しめられる。「家族みんなで」のメッセージが全面に押し出される年末年始の空気が一番辛い。
兄の生い立ちから学校生活まで
まず、彼の生い立ちから考えると、写真や親から聞いた話によると、兄は転勤族のサラリーマン家庭に育ち、母は専業主婦という設定で育ったようだ。父は忙しく育児には携わっていないという昭和の典型的な感じだったようだ。母は兄を掃除機で叩いたりして躾をしていたと母本人から聞いている。母が私を妊娠出産した時期は彼の中学2〜3年生の頃と重なっているようだった。兄はとにかく学校で勉強ができず進学可能な高校がなく、いわゆる軍隊式のようなお金さえ払えば行ける厳しくて有名な全寮制高校もしくは働くという選択肢しかなかったらしく、全寮制の高校へ進学した。その高校はテレビでお笑い芸人がネタで話すほど厳しく脱走する生徒が多数だったらしい。兄もそのうちの一人で何度も脱走しては連れ戻されたらしい。
兄の辛さの原因
後に、私が28才彼が42才くらいの時に「今までの人生で一番辛かったのはお母さんがドクダ美を妊娠した時やった」と私に言われたことがある。母は高血圧で妊娠中毒症になり2ヶ月ほど出産まで入院していたらしい。波瀾万丈な人生を送り保険金詐欺にあって殺されかけた後でも、母が私を妊娠出産したその期間が人生で一番辛かったと42才になって言うのだから、相当辛かったのだろう。その間父方の祖母が手伝いに来てくれ、全てのお世話をしてくれたが、祖母が厳しかったのも辛かったらしく、下宿していたいとこの方がお好み焼きのお肉が1枚多かったのが辛かったと言っていた。 私はそう言われても、、、と何と返したら良いのか困り、「そうやったんやね」としか言いようがなかったけれど、後で親に話すと「ごめんねって言ったらよかったやん」と言われ、それも何か腑に落ちずにいた。父は仕事だけで全く関与していなかったらしい。(田舎から出てきて都会で必死に働いていた。当時は外で仕事をすることが父親としての役割的な文化も色濃かったようだ)
私が生まれてから
私が1才くらいのヨチヨチ歩きの赤ちゃんの頃、母は兄に私を預けたらしく、その時兄は私を見ていなかったらしく、私は一人で近所の犬の所へ歩いて行き顔面噛まれて血だらけになり救急車で運ばれたことがあったらしい。幸い跡にも残らず私は全く覚えておらず、むしろ小さな頃から犬は好きな方だ。車に轢かれて死ななかっただけでも良かったと思うしかない。
これはおそらく3歳までの記憶なのだけど、母がよく「お兄ちゃんもこれ食べて頑張ってるんやからあんたもこれ食べなさい」と言いよく兄の寮と同じ食事が出て、卵がけじゃこごはんを食べていた。(現在の我が家では普通にごちそう!)
暴力の記憶の始まり
私の中の兄のハッキリとした記憶はおそらく4才くらいの頃、トイレに行き帰ってきてリビングのドアを開けると「殺すぞコラあ〜!!」と兄が叫びながら包丁を振り回して、母が「お父さん殺すならお母さん殺してからにし!」と叫んでいた。その3人の姿が今でも目に焼き付いている。私はとにかく怖くてそっとドアを閉めてそれが終わるまで部屋に入らず息を潜めていた。「あ、お母さんたち殺されるんだ」と思った。兄はその頃軍隊みたいな全寮制の高校を卒業して社会人になるも仕事はどれも続かず、お金のトラブルが絶えず荒れていたようだった。
そこから私が16才の時、彼が30才の時に両親のお店の売上金数百万円を盗みパチンコで2〜3日で全額使い切り、両親に勘当されるまで、そんな日々が続いた。私は人生で初めて兄が家にいなくなり、こんなに安心するものなのだ。こんなに楽なのだと驚いた。初めて深く息ができたようなそんな感覚だった。その前もパチンコで儲かったりお金ができると2ヶ月くらい家を空けることもあったので、私は小さな頃から「どうか、誰でもいいから、お兄ちゃんにお金をたくさんあげて。そしたら帰ってこないから」とよく願ってはいたが願いは届かなかった。
兄がいるといつヤクザやサラ金の人達が突然やって来て「金返さんかいコラあ!!」「オンドラこらあーー!!」「なめとんのかあー!」といつ突然大乱闘が始まるか分からず毎日が恐怖で、私はいつも「始まってしまった。。。」と2階の自分の部屋で震えながら机に座り終わるのを待っていた。 時には「金返さんかったら妹殺すぞコラあー!」というのも聞こえてきて、「あ、私殺されるんだ」と思った時もあった。 その都度父がお金で解決していたようだった。父も「なめとったらあかんぞ!警察呼ぶぞ!」と怒鳴り声を上げていた。その怖い人達がいなくても、家で兄はいつも私の両親に大声出して暴れていたので、兄が家にいる時は常に緊張状態だった。食事はいつ急にキレてお皿ごと投げられるか分からなかったのでいつもその度に嫌〜な重りが心にズシっと乗っかった。 家中の壁という壁は兄がキレる度に穴を開けるので壁中ビッシリポスターやカレンダーが貼ってあった。奇妙なのは、我が家は誰からみても「笑顔あふれる明るい家族」というイメージ戦略を通していたし、見事に成功していたことだった。いや、周囲にそう思わせ成功させることが私の子供時代の知らず知らずのうちに背負っていたミッションでもあったのかもしれない。
私の子供時代の一部はこちら‥
暴走する車の中で
兄は10代の頃からいわゆる走り屋をしていて、暴走族というか事故で何台も廃車にして兄自身も酷いむち打ちをしていたこともあった。改造車に大金を注ぎ込んでいた。私が幼児か低学年の頃、何かの会食の後家に帰る際、母が兄に「あんたドクダ美乗せてったりや。たまにはきょうだい水入らずで仲良くしたら」と兄に言い、私は嫌がったが無理矢理兄の車に乗せられ、断る力は小さかった私にはなかった。案の定兄は私を乗せて家には帰らず200キロくらい(体感なので、実際は140~160くらいだったかもしれない)の猛スピードで走りに行き(おそらく高速道路)、景色は全て黒の背景に無数の白の横線しか見えず、とにかく恐怖で泣き叫び続けた。 家に帰ると「鬱陶しいわ、うるさかったわ〜もう二度とゴメンやわ」と兄が言い、母が「なんやせっかくお兄ちゃんが乗せてくれたのに、あんた可愛らしないな」と私に言ったのを覚えている。私はあの苦痛と恐怖の感覚を今でも鮮明に覚えている。私の一番上の子が2才くらいの時、同じように母が兄に私の一番上の子を車に乗せてどっか連れて行ってあげなさいと兄に言ったときは、私のトラウマと絶対に辞めて欲しいから今後そういった声かけは一切やめて欲しいと母にお願いした。結局兄が地元のコンビニに私の子供を見せに行きたいから連れて行くと言った時は「せっかくお兄ちゃんが誘ってくれてるんやから断ったらあかん」と無理やり一番上の子を連れて行かれたが私は気が気でなかった。目的は見せびらかすことであって兄に子守する力がない(絶対子供のことを見ずに友達と遊ぶ)ことは私が一番よく知っていたからだ。 私は再度母に絶対に辞めてと伝えた。お馴染みのセリフ「可愛らしないな」とは言われたが子供を持った私にはそれを気にする余裕はなかった。兄も友達に新しいおもちゃを見せたかっただけで、私の子供と時間を過ごしたい訳でもドライブに連れて行きたい訳でもなくて、おそらくお馴染みの母に「ドクダミの子供、どっか連れてったりや」と耳打ちされて誘導された行動だったので、それ以降連れて行かれることはなかった。
年とっても変わらなかった
両親や周囲の兄に対する「遅咲きだから」「年いったらおさまる」の言葉とは相反して、いつキレるか分からないのは、近年でも同じだった。実家に帰るといつもそういう緊張感が走っていた。私と両親はどうやったら兄がキレるのを防ぐかそれを基準に話したり行動するのが板についていて、でもそれはとても疲れる時間だった。と同時に両親は兄をからかってわざとグズらせたり、わざとキレる地雷を踏み楽しむ場面も多々みられた。 そんな感じなので、気が休まらなかった。表面的には笑いが溢れ一見和やかに見えるところが私の実家の奇妙なところだった。私の一番下の子が赤ちゃんの時に実家に帰省した時も50才を過ぎた兄が父にキレてバーベキューの火のトングを振り回し壁にガンガン打ち付けて暴れ、私は自分の子供達の身の危険を感じたし、自分の子供達にあの嫌な感じをそれ以上体験させたくないし守らねばと子供を連れて家の中に急いで入った。
後で分かったのだが、どうも私達家族が帰省する際に「妹が帰ってくるんやから」「妹の旦那さんが来るんやから」「かわいい姪っ子甥っ子達が帰ってくるんやから」と普段何もしない兄に母が「お兄ちゃんらしく」とか「〜やったろうという気持ちはあんたには無いんか!?」と本人の意思と反して普段絶対にやらない家の用事を頼んだりしていたそうだ。「例えばパンを買ってくる」「特定の物を押し入れから出す」とかそういうことなのだが、本人はやりたくないことを無理矢理させられたので、パンを買ってきた時点で兄はもう「並んどったら、おばさんが横抜かしてきて〜言うから〜言うたったわ!もうめっちゃしんどかったわ!」とすごい剣幕でキレて私達に訴えた。キレるという事態は本人はゲームをしていたいのにイライラが募りコップが溢れ引き起こされていたのではないかと予測する。私は両親に「私が帰ってくる時に、私や子供達のために○○したりやっていう声かけは嫌がってるしキレる原因にもなるから、やめたって。パンとか必要なものがあったら私が買って来るから」とは言ったが両親も無自覚無意識でしていることなので話は通じずだった。それに母は本当にパンが必要で兄に助けを求めたというよりは「なにか兄らしいことしなさいよ」と言う感じでわざとタスクを与える感じだった。
母と兄がチームになる時
私が何か親の意にそぐわないことをすると「あんたは〇〇川の橋の下で拾ったんや。言うこと聞かんかったら橋の下に戻すで」とよく言われていて、兄も喜んで両親と一緒によく私にそれを言ってきた。 「あんたは橋の下で拾ったんや」と言う時は、いわゆるシンデレラの継母のような分かりやすく意地悪く言うというよりは、あくまで「可愛らしい子供をからかって微笑む」という感じで(節分の豆まきの時に鬼を見て泣き叫ぶ子供を見て喜ぶ大人のような、大人が子供をいじめて楽しむ事に対し公然と免罪符が出されているイメージ)パフォーマンスされていたというか、母と兄が口裏を合わせて、母「あれ拾ったんいつやったかな?」兄「そうそう、あん時猫がおるかと思って見てみたら赤ちゃんやってん」といった感じで小芝居のような形だった。そして私が泣くと母や兄は笑って「アホやなぁ」と言い和やかになった。父はそのことに興味はなく何も言わないか、母と兄に同意を求められると「そうやなぁ」と言ったり一緒にワハハと笑って楽しむだけだった。結局小学校中学年頃になると色々わかってきて「橋の下で拾ったって言ってたけど、私たち顔似てるよね。絶対血繋がってるよね。」と言ったものの、そんなことはないと言われ、客観的な意見を集めるために他の人たちにも私と兄や両親の顔が似ているか本当に橋の下で拾ったのか聞いてリサーチして突きつけると面白く無くなってきたのか、「なんや理屈コネて可愛らしないな。おもろないな。」と兄も両親もそれ以降いつの間にか言わなくなった気がする。自然消滅した。
長くなってきたので、続きは次回に
読んでくれてありがとうございます。
#1〜 #4までまとめてはこちら ↓