【短編】音の三部作「ワイングラス」
床に落ちたワイングラスは音をたてて砕け散り、辺りにグラスの破片とワインが飛び散った…。グラスの砕ける音を聞いた瞬間、俺の脳裏にはあの苦い思い出が蘇っていた。
大学に入学した俺はすぐに、テニスサークルに入った。
そこで、同学年で歳も一緒だった彼女と出会い、すぐに好きになってしまったんだ。我慢なんて言葉を知らなかった俺は、すぐに強引なプッシュをして、粘りに粘って口説き落とし彼女と付き合う事になった。嬉しさのあまり浮かれてはしゃぎまくっていた事を懐かしさと共に、今でもはっきりと覚えている。
それからの二人は、良くケンカもしたけどその度に二人の仲は深まって行った。やがて、あっという間の大学生活の4年間が過ぎ、お互いに就職をして社会人になった。二人は、まるで当然の事のように結婚の約束をし、俺が一人前になる頃という理由から、式は社会人4年目に挙げようというところまで決めていた。そして、あの頃の二人はその日が来る事を信じて疑いもしていなかった・・・。
働き始めてからの俺は、早く一人前になりたいというあせりの気持ちからか、仕事に没頭するようになっていった。俺と彼女とは誰よりも分かり合っていると自惚れていた俺は、仕事を理由に何度も彼女との約束を破り、電話さえもあまりしなくなっていった。はじめのうちはしょうがないと我慢していた彼女も段々と不満を漏らすようになり、ケンカの回数も増えていった。そして、とうとうあの日を迎えてしまったんだ。
彼女がいつか行きたいと、何度も言っていたレストランに半年も前から予約を入れていた。そう、彼女の誕生日のお祝いのために・・・。俺は何時もの様に仕事を理由に待ち合わせ時間に遅れた。自分の失敗から長引いた仕事を片付け、約束の時間から一時間遅れでやっと店に入った俺を、彼女は涙を浮かべながら責めた。今思えば、涙を浮かべた彼女の瞳には何かを決意した者の色が滲んでいたような気がする。しかし、そんな事に気が付きさえもしなかった俺は、何時になく執拗に責めてくる彼女に対する苛立ちと仕事の失敗の苛立ちとが重なり、怒りを爆発させてしまった。
俺は、店中の注目を浴びる程の大声で彼女に怒鳴り散らし、テーブルの上にあったワイングラスを叩き落とした。床に落ちたワイングラスは音をたてて砕け散り、辺りにグラスの破片とワインが飛び散った…。
そして、落ちて砕け散ったワイングラスと共に、俺たち二人の関係も砕け散ってしまった。あの時、店から飛び出して行った彼女とはあれ以来、一度も会っていない。いや、会って貰えなかった。失ったものの大きさと自分のおろかさにやっと気付いた俺は、その後に何度も何度も電話を掛け手紙を書きメールを送り自分の非を詫びた。でも、彼女はもう二度と俺に応えてくれる事はなかった。
それから何年かが過ぎ、苦い思い出もやっと少しは和らぎ始めた頃、俺は一人の女性と出会う事が出来た。長い間凍てついていた俺の心を溶かしてくれた心優しい女性・・・。それが、君だった。そして今、俺は君と再びあの時のレストランに来ていた、あの時の自分自身に対する戒めと共に・・・。
ウェイターがグラスの破片を片付け終り新しいグラスが来た時、グラスを割ってしまった事に気まずそうな顔をしている君。そんな君に、俺は今日のために用意していた小さなプレゼントを一つの言葉を添えて差し出した。
「結婚しよう。」
俺の言葉と共に唐突に差し出された小さなプレゼントを、君は手に取り少しの驚きの表情を見せた。少しの間を置いて、微笑と共に君は小さくうなづいた。俺は君の小さくて細い左手の薬指にエンゲージリングをはめながら、「二度と同じ失敗は繰り返さない、君を必ず幸せしよう。」と心に誓った。君のこれからの人生の中で、グラスの割れる音を聞くたびに、今日の出来事を小さな幸せな気持ちと共に思い出せるように。冷たく切ないグラスの音が、俺の中で、暖かく優しい響きに変わったこの日の出来事をいつまでも忘れないように・・・。