生涯、公務員として働こうと、その時は思ってた
21年勤務した都庁。入都も退職もほんとにたまたまのタイミングでした。
たまたま見つけた新聞広告
29歳、テレマーケティング会社でスーパーバイザーでした。クライアント先に常駐し、カスタマーセンターを運営してました。
娘は2歳でした。娘が5ヶ月で職場復帰し、なかなか残業も難しいながら懸命に働いていたけど、このままずっとこの職場で働けるのかな、と思ってた頃。
たまたま見つけた都庁の採用試験。時代を彷彿させるのですが、日曜の新聞広告で、ほんとたまたま。
民間の風を都庁に、的なキャッチコピーだったと記憶。そうか、そういう働き方があるのか、と問題集を買って、なんとなく勉強。仕事と育児しながらの勉強で、専門学校などに行くなども思いつかず。結果、筆記、面接を通過して、1999年に入都しました。
軽いカルチャーショック
最初の配属は大学事務。仕事の進め方そのものは「様式美」というか、それまで「個性出してなんぼ」と思っていた自分には、結構なカルチャーショックはありました。
都庁に限らず役所というのは、本庁舎と出先事業所のギャップはあって、「都政」とは縁遠く生きていくこともできるのが出先。実際、出先事業所だけしか経験しない職員も結構な人数いると思います。それでも、本当にラッキーだったのは、最初の上司も次の上司(課長級)が本当に素晴らしい方で。常に「都政の本質」「職員としての視点」を教えてくださる方々でした。
本当のカルチャーショック
大学は2001年途中までは一応「局」で、局長級もおり、幹部も優秀、私自身も希望した大学事務だったし、教員の方々とも楽しく仕事をした3年間でした。主任試験に合格し、2002年春、とある都税事務所に配属となりました。
いい経験でした・・・いろんな人が都庁にはいるのだ、と知りました。民間企業で見たことないタイプ(こんな人絶対クビになってる、レベル)と初めて遭遇しました。一部の優秀な、もしくはまじめな人材が全体を回している、問題職員が一定数いい塩梅で散りばめられている現実を知りました。
誤解のないように申し上げると、税務そのものは私は勉強になったし、出先のベテランの税務そのものの知識と経験は尊敬に値する方々も少なからずいたことは事実です。ただ、全体の空気はすごくゆっくりでした。
広報への異動
税務には出先2年、本庁2年、計4年いました。ちょうど娘が保育園から小学校低学年。その頃離婚も経験し、ワンオペで回す自分にとって、残業が比較的少ない税務部署は今となっては良かったと思います。
それでも、公募制人事で広報部署の募集を見た時、「これは異動したい!」と手を挙げました。結果、ウェブサイト1年、インナー広報2年、プレス対応2年、広報紙編集3年、と8年続けて広報に携わって、「ああ、植田さん、広報の人ね」というブランディングはなんとなくできあがりました。大抵のことはこの8年で経験したような。
一方、広報って判断基準が明文化しにくいので、簡単に上司の意向に振り回されます。「このままずっと広報でいいの?公務員ぽくなくなってきてる…」という疑問もふつふつ。そこで畑違いの「生活協同組合係長」なんかも経験しました。たまには法に頼りたくなったんですよね。
その後、文化事業、その後は東京2020組織委員会広報局など、また法律から離れ、都政の中ではいわゆるソフトな部門で生きていくことになっていくわけです。