絶対に残したい【ららマジ】のストーリー。1章2章解説、そして「ふたりの景色」へ
かの名作、真なる神作である【ららマジ】がサービス終了してもう何年という話だ。
幸い不定期ながらも年に何回かの供給が与えられることにより私のような成仏できないオタクでも生存を許されている。コンテンツとして奇跡の在り方だ。
当noteにおいて幾度となく記事で話に出しているが私にとってのららマジにおける永遠はかの神のイベント「マイ♥ベスト♥フレンド」に他ならない。
アプリのオフライン版があるわけでもない、以前出たクラウドファンディングにおける書籍版でもこのイベントを見ることは叶わない。
だからこそ、神のシナリオを絶対に風化させてはならない。可能な限りららマジについて何も知らなくてもその力に触れられるようするつもりだ。
私はマイ♥ベスト♥フレンドに関する拗らせ方には自信がある。ならば剣を取らねばなるまい。ノブレス・オブリージュとはかように成す。
記事にして残すことで私はマイ♥ベスト♥フレンドを真なる永遠にする必要がある。それは自分の為でもある。
あるいは遠くない未来、クラファン第二弾がきてマイ♥ベスト♥フレンドが小説化されるかも知れない。それにより世界を変えられる可能性だってある。だから今の、今までのマイ♥ベスト♥フレンドを残しておくことは後々にとっての自分の為ともなる。
前置きが長くなった。マイ♥ベスト♥フレンドの話をしていくわけだが、この記事においてはその話をすることはできない。
かの神イベントと向き合う為には絶対に避けて通れぬものがある。そう、メインストーリー1章「いばら姫」と2章「アマデウス」だ。
この2つの話をしないことにはマイ♥ベスト♥フレンドのなんたるか、その力の神威に触れることは叶わない。
だがなんと基本的にはこの2つのストーリーだけ抑えておけばその全貌を楽しめるのでこれで安心だ。
さあ 奏でよう。
メインストーリー1章「いばら姫」
まず大前提だがメインストーリーの話は基本的に全てが過去の出来事である。色々あってそれを追想という形で追うことになる。そこらへんの話は本編を見ろと言いたいところだが見ろと言われて気軽に見られる媒体がないのが口惜しい。
あくまでもこの1、2章のストーリーを追うためのものとして説明をする。なので知っている者からしたら引っ掛かるところが生まれる可能性がある。そういうものだと思いたまえ、チューナー。
重要なものはメインストーリーの主役となるキャラはなんらかの理由で音楽が出来なくなっていた。
それがなにであるか、それがどうやって解消されたのか。前者が「呪い」であり後者が「救い」と呼ばれている。ということだ。
あらすじ
幼少期よりフルートの演奏において天才と呼ばれた「結城菜々美」は過去の些細な失敗が原因であがり症を煩い、人前でフルートの演奏が出来なくなってしまう。
天才故に周囲の人間からかかる期待は大きく、それを自覚すればするほど人前で演奏することが困難になる。それを知っているのは菜々美と親友の「九条紗彩」だけだ。
紗彩は菜々美の親友であり理解者としてあがり症を治さんと協力していた。だが菜々美のあがり症はついに演奏会に出られなくなるほどに酷くなっていく。
天才だなんだと期待されるけど本当に人前に立つと緊張して演奏できなくなってしまう苦しさを紗彩に理解されず、菜々美は「私のことなんてなにも知らないくせに」と怒りを見せる。
ついには菜々美はこんなにも苦しいならとフルートを捨てることで音楽そのものを自分の中から捨てようと湖へと向かう。
だがそこで菜々美は紗彩と出会い、話をする。
才能だとか結果など重要な話ではない、なによりも「自分が音楽を楽しむこと」こそが大事なのだという紗彩の言葉に菜々美は救われる。
その言葉により菜々美は再び「音楽を楽しむ」ところから始めようと決意するのであった。
菜々美と紗彩
「いばら姫」はゲーム内において最初のメインストーリーであり、話の内容としても非常にららマジが持つ王道の良さを凝縮したような短くもまとまった出来の良いストーリーである。
1章後、菜々美は基本的に明るく元気に時にメインヒロインらしくチューナーくんと距離を縮めたり距離感がバグっていたりとなのでコンテンツに触れれば触れるほど1章における曇った菜々美の姿は印象的なものとなる。
結城菜々美という人間離れした才能を持つ神童が「あがり症」というあまりに人間臭い悩みで挫折して音楽を諦めようかと迷う。
失敗を知らなかった天才である菜々美が些細な失敗によりあがり症になりそのままずるずるとイップスで苦しみ続ける様を見ることができる。
人前で演奏することが苦痛になるだけでなく、次第にそれはもう音楽が楽しくないという呪いへと形を変えていく。稀代の才能はあまりにも人間臭い理由によって失われる寸前だった。
ここにおいて特筆すべきはやはり核となる菜々美の存在、そして救いとなった彼女の「親友」である紗彩の存在である。
このように公式でも強調されるように2人は親友、ベストフレンドだ。絶対に忘れるな。菜々美と紗彩は誰がどう見ても親友なのだ。
音楽をやめることで楽になろうとした菜々美への紗彩の言葉、上手い下手でなく自分が楽しければ今はそれでいい。これが多くの意味で重要なものとなる。
誰かの期待に応えようとしてその重圧ばかりに目がいくようになってしまった菜々美にとってこれ以上響く言葉はなかった。なぜならば彼女も最初は音楽が楽しいからやっていたのだから。
菜々美の救いは紗彩のその言葉であり、ひいてはその存在である。彼女の視点からすれば「救ってもらった」という事実がここに生まれる。これを覚えておけ。
だからこそ、1章の中盤に入る菜々美と紗彩のすれ違いにこそ特筆しなければならない。
あがり症に苦しむ菜々美に対する紗彩の言葉。それに対する菜々美からの「紗彩ちゃんにはわからないよ」という言葉。
これが紗彩にとって超弩級の地雷であることは後述する2章での話となる。
それに対する紗彩の「私にあんたの気持ちなんてわかるわけないじゃない」という言葉。
このすれ違い、2人の関係性が垣間見えるこの部分は全ての核でありマイ♥ベスト♥フレンドにおいても絶対的に重要な要素となる。
1章においては菜々美の自信のなさ、そして自己評価の低さを散見させる言葉である。人前で自然に演奏するという自分にできないことは、他の人にとって当たり前にできること。昔の自分ならいざ知れず今の自分は凡人、あるいはそれ以下。彼女の自己評価は低い。
だから、この時の菜々美には自覚がない。自分が客観的に見て天才であるという自覚が。あるいはあったのかも知れないが目を背けている。
1章の時点において、紗彩の言ったこの言葉の真意を知る術はない。友人として菜々美のことを心配しているから。一人の奏者として菜々美の演奏が好きだから。現時点で考察できる理由はこのあたりだ。
故に先へ進まなければならない。「いばら姫」の最奥へ触れる為には2章「アマデウス」の話が必要不可欠だ。
メインストーリー2章「アマデウス」
あらすじ
幼い頃からヴァイオリン奏者である紗彩はプロになりたいという想いを抱いて音楽と向き合ってきた。幼少期はコンクールに出れば入賞するし本人もそれに驕らず努力を続けていた。だからその夢は現実的なものであった。
幼い紗彩はあるコンクールで一人の天才の存在を知る。
その人物は誰が聴いても天才だと分かる演奏で紗彩の心も魅了した。周囲の人間からもその天才の噂を聞く機会がある、本物の天才だ。「あんな風」になりたいと彼女に思わせた、憧れとなった。
紗彩はその天才をかの音楽に愛された天才「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」に重ねて「アマデウス」と称している。
それからアマデウスと関わるまでもなく紗彩は薄々感じることになる。自分の才能のなさを。
子供の頃は入賞できていたコンクールでもだんだんと入賞できなくなり、努力を重ねても成長の実感すら得られなくなった。どうしようもなく音楽に対して行き詰まった時、彼女は「アマデウス」に再会する。
本物の天才が放つ音に触れた時、彼女は知った。自分が成功できない理由を。才能がなかったから、自分は天才ではなかった。ただそれだけのシンプルな理由だ。
だが再会したアマデウスはなんと「あがり症」によって人前でかつてのような演奏ができなくなっていた。そう、「アマデウス」とは「結城菜々美」である。
だから紗彩はそんなアマデウスのあがり症を治してあげようと思い、友人として側にいることを選んだ。天才の音に近づきたい、あの音楽が失われるのはもったいないなど様々な理由があった。
だがあがり症は治る兆しをも見せなかった。そして紗彩自身も次第に天才への劣等感とその腐らせている才能への嫉妬を覚えるようになってきた。彼女はそんな自分をアマデウスに嫉妬して狂った「サリエリ」の存在と重ね、悲観する。
紗彩は自身の才能のなさを自覚してから、ずっと菜々美の才能に憧れ嫉妬していた。
紗彩の中に渦巻くアマデウスへの感情は彼女を蝕み、このままでは一人の友人としていられなくなる。本当にサリエリになってしまうとまで思わせ、「音楽をやめる」という結論へと至らせた。
ヴァイオリンを捨ててしまおうと湖へと向かった。だがそこには先 に菜々美がいた。持って生まれた才能が故にかかる重圧と治らないあがり症に苦しむ彼女もまた「音楽をやめる」という結論こそが自身を救うと考えた。
そんな菜々美に紗彩は考えるよりも先に話かけていた。
そして人の目を気にして音楽を楽しむことのできない菜々美に「あんたの音楽は、まずあんたのためにある」と言う。それから「楽しければそれでいい」と。
そして紗彩は自分自身の発した言葉でそれが自分にとっても今一番大事なものだと気付く。その言葉は菜々美の救いであり、彼女自身に対する救いでもあった。
才能がなくても天才じゃなくても関係ない。自分の音楽は自分のためにある。それが音楽は楽しいことであると、楽しむものであると思い出させた。
紗彩もまた「音楽を楽しむ」ところから始めるのであった。
腐っても天才、腐った凡人
2章「アマデウス」の話、それは即ち1章「いばら姫」の補完の話でもある。
「アマデウス」は先より登場していた菜々美の親友である紗彩がメインとなるストーリーである。
ここでは紗彩が菜々美という本物の天才、アマデウスに出会い自身が音楽の才能のない凡人であるという事を思い知ることに重点が置かれている。
そこにあるのは憧れと劣等感。天才の音に憧れ、稀代の才能を持ちながらそれを活かそうとしないことへの憤りと嫉妬。清濁入り乱れる感情の中で彼女はどんな答えに辿り着いたのか。そこがメインの話となる。
そう、2章は1章と時間軸を同じとする話なのだ。菜々美が苦しんでいた時、紗彩も苦しんでいた。そして苦しみながらも菜々美を救った。
では紗彩は何によって、どのように救われたのか。そこにこそ1、2章の神威が存在する。1章の時点で出来なかった話は2章を見ないとできない。
天性の才能を持ちながら「あがり症」というあまりに人間臭い理由によって真価を発揮できない菜々美。何一つ体にも心にも不自由なく全力を出せているのに天才の足元にも及ばない紗彩。
天才と凡人、光と闇。2人の対比は明確だ。だから紗彩は菜々美を「アマデウス」と称し、自身をそんなアマデウスへの嫉妬で狂った「サリエリ」に重ねている。
特筆すべきはやはり天才でありながら凡人のような理由で悩む菜々美と天才でないことに悩む凡人の紗彩という対比の構図である。
作中においても紗彩が菜々美に対して嫉妬の感情を抱いていることは明示されていた。だが菜々美はそんなことを露知らず自分の悩みだけしか目に入っておらず2人の感情、想いはすれ違っていた。
1章にも出てきた菜々美の「私のことなんて何も知らないくせに」と紗彩の「私にあんたの気持ちなんてわかるわけないじゃない」という言葉。
この2つは2章を見ることで初めてその全貌がくっきりと見える。
そう、「私にあんたの気持ちなんてわかるわけないじゃない」から無力感が読み取れるようになる。自分は天才じゃない、アマデウスではない。だからアマデウスの気持ちなんて分かるわけがない。
菜々美の、「アマデウスの方こそ才能のない人間の気持ちなんてわからないくせに」そんな感情が紗彩の中で渦巻いていたのだ。ただの怒りではない、天才の才能に嫉妬していたからその言葉が出てきたのだ。
天才に、才能に嫉妬して狂う。アマデウスの音に嫉妬するあまり狂ってしまった。だから、紗彩は自身を「サリエリ」と称し、嘆く。
だから「どうして私はサリエリなんだろう」という言葉が出てくるのだ。
ここである、私が紗彩ちゃんに狂ったところは。劣等感、嫉妬、光と闇の憧れ。そういったくそでか感情だけが私の肉体を突き動かす。
ではそんな紗彩は何に救われたというのであろうか。現実として彼女たちは「親友」であり今に至っても仲が良い。あるいはそんな劣等感を抱えたまま友人であり続けたわけではないだろう。
この言葉は1章では見ることができず、2章でしか見ることが出来ない。そして紗彩のこの言葉こそが彼女の救い。
紗彩は菜々美に向けて言った言葉で自分自身もまた救われる。才能だとか実績に囚われて音楽を楽しむことさえ忘れていた彼女は自分が菜々美に言った言葉にこそ救われる。
2人は同じ思い出の、同じ言葉で救われるのだ。悩みもきっかけも性格も違う2人だが突き詰めると「音楽を楽しむことを忘れる」という同じ呪いにかかっていたのだ。
天才と凡人、絶対に交わることのないはずの2人だが同じ悩みを抱えて同じ出来事で救われていた。菜々美の救済は紗彩自身の救済でもあった。
これである。1、2章の神威というものは。1章が丸々2章の伏線となっていたのだ。菜々美への言葉も行動も全て2章に繋がっていた。アマデウスに蝕まれてきた紗彩は菜々美を救うための言葉に救われ、自身もサリエリの影を払拭する。
天才も凡人も関係ない。音楽を楽しみ愛する少女2人が改めて音楽への愛と楽しさを噛みしめる。そして才能も何も関係なく、一人の友人として一緒に音楽をやる楽しさを思い出すことができた。
この1、2章それぞれの締めの部分はクラファン版では小説ならではの圧倒的な力の奔流による締めとなっている。
あまりにもあまりにもすぎて初見の際にはもう見た瞬間とんでもなくでかい声が出た。この溢れる力は小説ならではの表現と言わざるを得ない。
一人称視点での語りを最大限利用し、神の視点に語らせずとも2人が同じベクトルで同じ想いを抱いていたと理解させる手法は美しさ以外に感じるものがない。
あまりにも美しく「ららマジ」というコンテンツそのものを象徴するに相応しいストーリーである。私はららマジらしさはここにこそ存在していると常に感じている。
何よりも音楽は楽しい、それを感じられなくなること。忘れてしまうことこそ最も救われないことなのだと。このテーマ性を最も強く表現しているのが1、2章である。
菜々美と紗彩は親友
1、2章を、ひいては他のストーリーを通じて見える絶対的な事実は菜々美と紗彩が親友であるということである。
ここまで見た上で絶対に一つ、見落としてはならない点がある。それは紗彩は菜々美の救いがなんだったのかを知らない。ということだ。
チューナー視点から見れば2人は同じ言葉で救われたことが分かる。だが紗彩からすれば菜々美の心中を見ることが出来ていない。だから彼女は自分の言葉で菜々美が本当に救われているという事実をこの時点では知らない。
ここにもすれ違いが潜んでいるということを決して忘れるな。
あがり症のせいで音楽を楽しめなくなった天才と才能のない自分への劣等感で音楽を楽しめなくなった凡人。そんな2人は同じ一つの「音楽は楽しむもの」という事実を思い出し再び音楽をすることになる。
元々友人同士であった2人はそれからも仲良く過ごしており、周りからは誰がどう見ても「親友」である。私もその事実に何の疑問を持つことをなくららマジをやっていた。
あの時が来るまでは。そう、始まりは2018年11月1日。
説明文だけで分かるな、これがどんなイベントなのか。菜々美と紗彩の「デート」のおはなしだからな。それはもう脳が溶けに溶ける甘く甘い甘きものなのであろうなと。
そしてイベント告知がきた。この時点で震えが止まらなかった。双子コーデは完全に想定を越えていた。
蓋を開けたら想像の500倍は甘く、そして何よりも遥かにららマジであった。2人は親友、そんな世界の常識レベルの話今更なんなのだと。
その全てを凌駕するシナリオであった、それがマイ♥ベスト♥フレンド。一発で世界の全てを塗り替えた。
「ふたりの景色」でまた会おう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?