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いつかサ終すら美しい思い出になってしまう前に【ららマジ2周忌】



もうすぐららマジがサ終してから2年が経つ。なんならもう2年前の4月には余命宣告がなされていた。
コンテンツが特殊なこともあってサ終とあってなお、いまだに新規の供給がきていることはららマジのオタク、ひいてはソシャゲ奴隷からしたら奇跡と呼ぶに他ならない。
そもそもサ終してからクラファンで完結しなかったメインストーリーの小説化がくるなど誰が予想できるだろう。結局まだ完結へは至っていないが完結するかも知れないという希望は得られた。
そんなまだ終わらないかも知れないという希望があるから、こうしてサ終さえ思い出のように語れるのであろう。だが、現実としてもはやららマジをプレイしていたころの記憶は思い出に変わりつつある。
思い出に変わるということがどういうことかというと、その何もかもがふふっそんなこともあったなという風に美化されてしまうということである。

朝晩問わずにすこすこスコールの名前を見続け永遠にデイドリのビームを打ち続けたことも拷問としか思えないような初出かなえ解放戦を攻略してたことも全てが美しい思い出になりつつある。
この調子だと次はいよいよサ終すら美しい思い出になりかねないため、まだ当時の記憶が残っているうちにその残留思念を成仏させておく。
サ終の告知を見た夜によくわからんちょっと高い寿司屋にいってよくわからん魚を食って酒を飲んで泣いて、会計見てガチャより10000倍安いじゃんってシラフに戻ったあの夜の惨めさを美しい思い出にしてはならない。

サ終の匂いと自己防衛

当時の記憶として、実際のところららドリが行われた辺りからもう明らかに巻きにきているという気配は感じられた。明らかにストーリーがおかしかった。これはメインストーリーでやるべき話であると、それも時系列的に遥か先である話だった。これはもうメインストーリーでやれないのが確定したからこんなことしたかったんですよといった感じで出し惜しみなく見せようとしているのではないかと感じた。
感じられたが信じたくはなかった。終わってほしくなかったからだ。ららマジは恐らく生涯で一番熱くなったスマホゲーであると自覚がある。本当にストーリーの質が良かった、キャラ造形が素晴らしかった。ただほんのちょっとメインストーリーの更新が遅かっただけなのだ。

そもそもが過疎ゲーなのにランキングイベだのレイドイベだのというユーザー数の少なさを可視化され思い知らされるイベントが多かったのもメンタルを摘まれた。もはや蠱毒のような雰囲気すら感じられた。
それでも続けられたのはひとえにストーリーが面白かったから、特にメインストーリーが。だがメインストーリーの更新はある時を堺にはたりと止まる。チェインギャングが出るまで一年くらい待ったような記憶があるしそこから先はゲーム内で実装されることはなかった。

救いであり呪い

じゃあ私にとってなにがモチベーションだったのかというとそれはマイ♥ベスト♥フレンドだった。これが永遠でありモチベーションであり、救いであり呪いであった。

見よ、純然たる"光"のなんたるかを

私はマイ♥️ベスト♥️フレンドのオタクである。2018年の11月に宇宙の真理に触れ、その後サ終までこのイベント以上に満たされるものはなかった。それで良かったのだ。なぜならばマイ♥️ベスト♥️フレンドは見たかったもの以上のものであり、これ以上ない完成度だったからだ。
だがいつの間にかマイ♥️ベスト♥️フレンドは救いであり、諦める理由となっていった。明らかな過疎と運営の更新ペースの鈍化、告知が統一されない月初のロードマップ、目に見えて分かる復刻イベントと限定ガチャの多さ。それらの薄々と終わりを予期させる要素は確実に真綿に首を絞められるようにメンタルを蝕んでいった。
だからいつしかマイ♥️ベスト♥️フレンドを越えられるものなど来ないと、これ以上の幸せなどきやしないと、知らず知らずのうちにやがてくるサ終へ耐えうるメンタル作りへ防衛本能が働いたのであろう。
実際に神がかったイベントであった。故に私は自身に都合よく神格化してしまった。してしまっていた。サ終という事実へ客観的に向き合えるほどの年月が経ったから、そう思える。

終わりの始まり

だから事実上の余命宣告となるイベント【また明日】がきた時には、ああついに来るときがきたかといった感じであった。マイ♥️ベスト♥️フレンドという心の支えがあってなお流石に同様が隠しきれなかった。
それからほどなくして予想通り、サービス終了の告知がきた。ある意味で覚悟はしていた。受け入れる準備はしていたが真っ直ぐ受け止められたかと言われたら微妙なところだ。

サ終告知当日の私のアカウント。必死の正当化が見苦しくもどこか儚い。

当時の新鮮な感情を掘り出してみたがいかに動揺していたか。もっと言うのであればいかにして悲しみと直面せずにいられるかの痩せ我慢のようにしか見えない。この醜く見苦しい足掻きを美しい思い出に変換してしまうのは何か違うと、その思いだけが肉体を駆り立てる。あの日の焼け焦げるような胸のひりつきやもう終わりを宣告されたのに溢れて止まない焦燥感、一種の錯乱状態とも言えるあのメンタルへの不協和音を美しくしてはならない。
それはある種本当に貴重な経験なのだから。凡百の感情とごたまぜにしてしまうにはあまりに惜しいとは思わないか。あの喪失感をポジティブに捉えることはそんな儚い思い出を殺すことに他ならない。私は本当にららマジのサ終が悲しかったのだから。そう思ってしまうと堪らなくそう思ってしまうからなるべく認識しないようにしていたが普通に悲しい出来事なのだ、サ終とは。
毎日ルーチン的に一定の時間プレイし、それなりの金額を注ぎ、それら以外にも絶対的な愛着がある。となれば悲しくて当然なのだと。だがそれがあまりにも悲しすぎるから直視するに耐えなかったのだ。特攻の拓のマー坊と同じ結論に辿り着くまでには私もそれなりの時間を要した。


最後にかけられた希望と呪い

大抵の悲しみは時間が癒してくれるという。事実人間の脳は次第に悲しいこと、嫌なことを忘れるように出来ている。だからこそ思い出は美化される。
私はららマジのサ終から不定期に突然公式から新規燃料が投下される度に喜びと同じくらい戦々恐々としている。

それは公式が死んでくれないといつまで経ってもこちらもまた成仏できないからだ。なまじ完結させてくれるのでは、という希望がある分質が悪いとも言える。確実に喜ぶべきことなのだが、死んでくれない以上こちらも死にきれない。いつかなにかがあの時のように突然お出しされるのではと淡い希望を抱えて生きなければならない。それは未来に希望があるという意味では幸せなことである。が、一度サ終という形で死を看取ったものとしては複雑な心境だ。完結するにせよいつの間にか音沙汰なくフェードアウトするにせよ、もう一度終わりに立ち会わなければいけないからだ。
完結してくれるのであればそれにこしたことないし出すものは出すつもりだ。公式が動いてくれるのであれば。そこが恐ろしいのだ。なまじ希望があるから恐ろしい。一度不完全燃焼で終わったものが大団円を迎えるかもしれないという希望は呪いの一種と言っても過言ではないかもしれない。
スマホゲーという媒体が合っていなかった、あのスマホゲー戦国時代のオリジナルIPとしては良くやっていた。だからこうして別媒体で生きていけるのであればサ終して良かった、などと絶対に思いたくはない。それを肯定することほど悲しいことはないと思う。

様々な感情が入り乱れる中でららマジが好きだからこその喜びと恐怖を抱え、今日も生きている。明日、もしかもしかしたらあの日のように突然クラファンの告知がくるかも知れない。あるいは明後日。去年のいつ頃こんなものがきたから今年も何かをやるかもしれない。いつくるのか分からないがある日突然きたのだからそれはまた突然やってくるかもしれない。
最後の最後、ららマジにかけられた【また明日】という呪いが調律される日は来るのか。


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