【逃げ上手の若君】の2話で出来た推しが2話で死に俺のすごろくは上がりとなった。悪意なき邪悪「五大院宗繁」の美しき魅力
知名度以外の全ての鬼畜度で織田信長を越えた男。
鎌倉史上最も美しくかっこいい男「五大院宗繁」こそが俺の逃げ若での生きる道。
彼のなにが私の心を駆り立てるのか。
答えは一重に「善悪を超越した存在である」という点に尽きる。
数多の人間が辿り着こうとしても辿り着けない世界。「あんな風に自分の為だけに生きてみたい」そう思った時には絶対辿り着けない領域。
人の身でありながら悪魔の血を持って生まれた者だけの特権。自分には絶対に辿り着けない領域の人間にこそ人は魅力される。
人を人足らしめるもの、道徳心である。
道徳心こそ人道と言われるが所以だ。
それらに囚われない。自分が追うもの、即ち野心の為に人間性からの脱却をすることができる。
これは本当に難しいことである。理屈で分かっても並大抵の人間であれば道徳心を切り捨てることは難しい。まして他者の命が関わることならばなおさら。
五大院は鬼畜であり外道である。ためらいなく子供を売り飛ばせる所業は人の道から逸れている。
だが悪人ではない。
なぜならば彼に悪意はないからだ。
あるのは底抜けの野心。「夢」と言い換えてもいい。
夢追い人であるだけで悪を成そうとは思っていない。他者から見れば悪だが本人にその自覚はない。
裏切りは目的ではない。効率的な手段を選んだまでだ。そこに倫理観もなければ人道も一切存在していない。だから五大院宗繁は美しい。
決意した悪ではないのだから。夢のため踏みしめた道が道徳心だっただけのこと。
悪意なき悪。悪いことをしようと思って悪いことをしているのではない。
故に彼は「善悪」という概念を超越した存在なのだ。
9歳の甥を裏切ることに罪悪感だとかそういうことを感じるだとかいう人道的な話は筋違いだ。彼は切るべき"手札"を効果的なタイミングで使っただけの話なのだから。
徹底した野心と夢への努力に手を選ばない男。そこに善悪という概念が存在しなければしないほど良い。
成功への渇望、夢への執着心。果てなきドリーマーは鎌倉にこそ存在した。ああ、人の夢は終わらねえ。
第三者から見たら言い逃れもできない純度100%のどクズである。でも本人はそんなことを気にしない。自身の野望が全て。
五大院宗繁の素晴らしいところは善悪を超越しているところだけではない。
"それなりに"強いところだ。"それなりに"だ。
真の魅力はこのバランスにある。
武力で覇を唱えた足利尊氏と対照的な存在だからだ。
強い野心を抱いていたが武力だけでそれを成し遂げられるほど強くはない、という点でだ。
護衛役を任される程度には強かった。ということはそれ以上に強くはなかったということも同時に意味している。
だから彼は武力以外の使えるものを使って成り上がるという選択肢を選んでいる。それは自身の武力の限界を認めたことと同義である。
自分は強い。しかし強さだけで成り上がれるほど強くはない。という彼の劣等感を読み取ることができる。ここである、結局のところ劣等感が原動力の人間以外愛せない。
自分の限界を知ってなお、野心を諦められなかった。だから五大院宗繁はあんなにも真っ直ぐでかっこいいのだ。
夢のためにプライドを投げ捨てられる男はかっこいい。真に得るべきもの、守るべきものがなにかを知っているからだ。
自分の手札、手段として「裏切り」を活用していく。なぜならば彼の手札には都合良く使える七光りがあったから。
「甥の護衛役として成り上がる」
「甥を売って成り上がる」
同じように甥を使用して出世をしている。そこになんの違いがあろうか。
どちらかだけでは夢のゴールへは辿り着けない。
それを理解しているから両方を駆使する。
「護衛役だけで成り上がれるほど自分が強くない」
「七光りだけで成り上がるほど血が強くない」
自分の弱さを理解している。だから使える賽を全て使っている。
客観的な強さを知り、なお夢を諦めない眩しい姿に私は強く心を打たれた。
その偉大なる夢への歩みをすごろくに例えているところも含めてだ。
すごろくは運要素の強いゲームだ。
人生をすごろくに例える宗繁は運ゲーと割りきっていなかった。「ゴールへ辿り着くもの」という点に本質を見ている。
どうすれば上がることができるのか、これを考えていた。どんな賽を使えば望んだ目が出るのか。上がりまでどれほどの目が必要なのか。
すごろくで遊んでいた子供たちは下総制覇だとか過程を楽しんでいた。しかし宗繁はゴールだけを見ていた。この対比も徹底したリアリストで美しい。
虎視眈々と裏切りの機会を伺い立ち回ってきた男が最後には追われる側に回る恐怖を覚えるからより美しいのだ。
甥、時行の兄は逃げないと分かっていた。だから安心して売り飛ばせた。だが時行との戦いは違う。
このままでは時行という道具、成り上がりの手段を追いながらそれに命を追われるという状況になってしまうと察したのだ。
【魔人探偵脳噛ネウロ】で篚口結也が人間が最も脆くなるのは追いながらにして追われる時だと言っている。正にその通りだ。
どんな状況に陥るのがまずいのか瞬時に察することのできる状況判断能力の高さを伺えてまた好感度が上がる。
そもそもが2人がかりの不意打ちをノールックで処理した後に太刀で大木を切っている時点でその強さのほどは存分に伺える。
非人道的なことはする。だがそれはそれとして戦いとなれば"それなり"の強さで立ち向かう者を切る。
策士でありながらもどうしようもなくなったら最後は斬って殺すという選択肢に落ち着ける。人斬りは所詮死ぬまで人斬りという鵜堂刃衛の言葉を噛み締めるばかりだ。
人斬りとしてのそれなりの強さ。
鬼畜としての圧倒的な才能。
この2つのバランスが本当に完璧で素晴らしい。
それなりの人斬りが外道に落ちたのではない。とびきり卑劣なクズなのに剣がそこそこ強いというアクセントに変わるわけなのだから。
しかしながら2話に登場してその話の内というかくも短く儚い時間の中で私の推しは散った。
しかし1話の中だけでもそれはそれはとんでなく熱く濃い燃料をもらった。やはりジャンプに出てくる外道は一味違う。
去年より今まで【呪術廻戦】のアニメで知った伏黒甚爾ほどではないが五大院宗繁も似たような心燃える熱さをくれた。
もちろん私はここで視聴を止めるような軟弱者ではない。まだまだ戦いは続く。
宗繁以上の出逢いにだって期待せざるを得ない。
しかし屈指の鬼畜武将はいないと言われるほどの男である。この出会いは運命で唯一無二と言わざるを得ない。
それなりの強さしか持ちえなかった凡才は逃げ上手の天才に破れる。
人道を外れた策を講じるも結局最後は戦いとなり凡才に相応しく殺される。
天下を獲るには全てが足りなかったと言える。
だからこそ、器でないのに野心を満たそうと戦う姿に魅力される。諦めず夢を追うその姿はヒロイックだ。
それはそれとしてやっていることはどクズもどクズというバランスが素晴らしい。葛藤も何もなく人の道を外れられることは才能と呼ぶ他ない。
出会いに、歴史に感謝を。
ありがとう、俺にとって逃げ若のゴール。
俺のすごろくを上がるのは、あなた1人分の賽で充分でした。
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