言葉は本質を隠す
4月の終わりの頃、スペインに一人で知り合いの家に行くために旅行に行って感じたことがある。
それは、「自分が言葉によっていかに自分を大きく見せているか」であった。
今回は、それについて、自分が感じたことをまとめていく。
スペインで感じた苦痛
4月の終わりに訪れたスペインの知り合いはスペイン人であったため、基本的には英語でしか意思疎通をすることができない状態だった。
自分はそれまで直前に行ったパリ以外に海外に行ったことがなく、英語も情けないくらい拙い。
言いたいことも言えなければ、聞きたいことも聞けない。ありきたりな質問ばかりを繰り返しては、その返答すらまともに聞き取ることができない。
そんな絶望的な状況から5日間お世話になることになった。
今、当時の日記を見て見ると「辛い」「きつい」と書いてあり、当時を振り返ってみると確かに「帰りたい」という気持ちはすごくあった様に感じる。
もうちょっと掘り下げて「何を辛いと感じたのか」を考えてみると、言語が通じない不自由なところであるという理由は勿論あると思うが、自分が聞きたいことを聞けないで安易なことばかり聴いていること、すなわち自分を下げて見せていることがすごく辛かったように感じている。
「俺のこと、バカだと思っていないかな」と考えても意味ないことがよく頭をよぎっていたような気がするし、それによってだいぶ精神的に消耗していたような気がしている。
この時に、自分が普段「言葉」によっていかに自分を大きく見せているかを痛いほど痛感した。
言葉さえあれば何もしていなくても、何の結果が出ていなくとも、自分自身を伝えることができるが、海外に行ったら自分の思想や考え方を詳細に話すことができないので、言葉以外の何かを持ってそれらを伝えていくしかない。
それは、物事に対する態度であるかもしれないし、拙い言葉を喋る姿勢かもしれないし、純粋な行動量や結果かもしれない。
何で表現するかはシチュエーションにもよるが、言語ではない何かで自分を示さなければならなくなる。
言語で通じ合えるうちは本質に辿り着けない
口ではいくらでもものが言える。目は口ほどに物を言うというが、口ほどポンポンと、あること無いことを表現できる器官がデフォルトで備わっていることもすごいことだと思う。
特に自分の場合、何でも知っているかのように喋るのが昔から引くほど上手い。
幼い時から周りに合わせたり、野球であれば監督や顧問の先生に合わせて意見を言ったり、その場で適当な理由を考えたりしなければならないことが多かったので、結果的に適当に合わせるのが上手くなってしまった。
客観的に見ても、僕は今考えていることをあたかも「昔から知っており、熟考に熟考を重ねて言っています」という雰囲気でいうのがめちゃくちゃに上手いと思う。
故に、気を抜くと、今でもすぐにこの悪癖を発動させてしまう。嘘はつくわ、誇張はするわで最低な人間にすぐに成り下がってしまう。
だからこそ、口先だけでなく「行動量」と「結果」で示していかなければならない日本の外に身を置くべきだなと思っている。
スペインではたくさんの苦労を感じたが、自分の言いたいことを話せないような国でもがいてみるとことで、言葉ではない別の表現方法が身につくのではないかと思っている。
言語で通じ合えるうちは本質に辿り着けない。
言葉によっていくらでも美化できてしまうし、美化することによって自分自身も本当のことがわからなくなってしまう。
言語が通じないからこそ、頭を使うし、体も使う。というか体を使わないと生きていけなくなる。
享受できる感性を鍛えるという面では、母国語の能力を鍛えることがすごく大事だが、野生動物的な表現方法を獲得するなら、母国語は捨てたほうがいい。
僕は今のところ、野生動物的な表現方法の先に本質が待っていると思っている。
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