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高嶺の花

作・咲夜
「君さ、何を思ってこれを書いたんだい?」
「あ、その、えっと、これは主人公が懸想した相手にーーー」
そんなことはわかってるよと相手の呆れたような声が耳朶を打つ。ああ、まただめだ。

家路をとぼとぼと歩く。昼下がり、賑わう人通りを避け、路地にはいってすぐの家の扉をガラガラと開け、力なく後ろ手でしめた。
「はあ…。またか…。」

僕は、しがない物書きである。まだ売れたことすらない、作家志望のままである。
最初は、ものを書くという行為は、もっと光に満ちていた。あれやこれやと場面が浮かぶ。そのたびに、それを原稿用紙に書いていく、あの心地よさ、あの嬉しさ。書くことが全てだった。両親に物書きになるので出ていくと言うと、勿論のこと猛反対を食らった。そのため、夜中こっそり寝台列車に飛び乗り、こうした都会まで来てしまった。しかし、書く仕事が、そう簡単に上手くいくはずもない。何を書いて編集部へ持ち込んでも、受け付けない、ツメが甘いの云々。そうしているうちに、ここまで生活は堕落してしまった。
(ああ、あの頃はよかったなあ。あのインクの匂い。今となりゃ、憎いものだ。)

飲みにいこうと畳に寝転んだ体を起こし、家の近所にある居酒屋へ向かった。店に入るとすぐに、近くにいた若い給仕係に声をかけた。
「お嬢さん、日本酒一杯、」
あいよ!という声を満足そうに聞きながら、再び長いため息をついた。
(…あいつは、今頃うまい酒でも飲んでいるのだろうな)

あいつというのは、僕の友達のA君というやつだ。学生のときに知り合って、文藝倶楽部で肩を並べてものを書き競った日々を過ごした友人である。A君の思考の隅々までを理解していた僕であるが、実際そいつは冴えないやつだと思っていた。そいつの書いたものを見ても、何と言うわけでもなく、ただ平凡だと感じた。僕のほうが上手いと素直に感じていた。ただ卒業して、数年した頃だろうか。雨が優しく降る書店の軒先で、見覚えのあるそいつのペンネームが見えた。(どうせ、あの頃と変わっちゃいないのだろう。)
そう思いながら藍表紙の本のページをめくる手は、なぜだか止まらなかった。目にうつる文字を追うたび、心の内側を撫でられた気がした。それは、ある種の陶酔と言ってもいい。その快感は、瞬時に焦燥へと化学変化を起こし、僕の胸を侵食した。

なんであいつはここまで書けるんだ。僕のほうがずっと上手に書いていたのに。
乱暴に本をおき、逃げるように書店を後にして、その日は嫌というほど酒に溺れた。

(やめだやめだ。あいつのことを考えると、どうにも胸が悪くなるからいけない。)
頼んだ日本酒を勢い良く流し込むと、滲んだ視界に木の机がいっぱいに映った。

ちくしょう。ああ、全て忘れてやりたい。やり直したい。書くのを嫌いたくなどなかったのに。
フラフラと千鳥足で家に帰り、物書き机まで行くとそのまま倒れ込んだ。ぐるぐると苦い思考が、酒気を帯びて熱をもった頭を締め付けている。
 ああ、僕はなんて馬鹿なやつなんだ。この親不孝ものは、物書きという泡沫の夢を見てここまで堕ちたのだ。才能にも恵まれず、友人は努力が巧を成して大成してく一方だ。
のそりと起き上がると、机よりも低い位置から、薄く埃のついたインク瓶と使い古して手垢のついた万年筆が、ろうそくの明かりでもの寂しい影を原稿用紙の上に落としているのが見えた。

数日後、街をぶらぶら歩いていると、偶然A君に声をかけられた。
「おや、B君じゃないか!久しぶりだね。」
僕は苦笑いをし挨拶のみ済ませようとすると、向こうは丁度いい、久しぶりに話そうぜとそこから喫茶店に入り、昔話に花を咲かせ始めた。最初は何かしら理由をつけて退散しようとしたが、向こうは当分、離してくれそうにない。

「そういえば、A君も大成したねえ。君の作品をを読んだけど昔はあんな文章をかいてなかっただろう。」
「確かにそうだね。昔、僕は誰かの真似ばかりしていてね。そりゃあ苦しんだよ。何を書いてもパッとしない、凡人のお遊びに等しかったさ。」
でもね、と彼は続けた。
「ある時、何も考えずに手の動くままに書いていたら、食事も睡眠も忘れてしまってね。」

「…それで書けたっていうのかい?」
ああ、そうだよ!と言うA君に、そんな話があれば僕はとっくにスランプを脱していると内心青年は苛立ちを覚えながら話を聞いていた。
「僕は、己の考えに囚われすぎていた。それに気づいてから一心不乱に書き上げたんだ。それが、君が読んでくれた僕の本なんだ。」

「そりゃあよかった。」
その一言は、かろうじて絞り出した返事だった。今の僕の目は、目の前のコーヒーカップが溢れかえるほどの嫉妬で満ち満ちているだろう。そこから何を何と話したかよくわからないまま、いつの間にか家に帰っていた。

「なんであいつが。」
僕は、A君と別れた後も尚溢れるとてつもなく熱い感情の濁流で、頭が千切れる思いがした。乱暴に戸を締め、どすどすと乱暴に畳を踏みながら机へ向かい、腰をおろした。そしてすぐに近くの原稿をひっつかみ、万年筆を滑らせ始めた。頭の中は、絶えずA君を罵っていた。するとなぜだか、じんわりと脳みその隙間に快楽が忍び込んでいくのを感じた。手を止めれば、この心地よさが消えてしまうような気がして、半ば無理やり手を動かした。次の日も、その次の日も、飲食をしても風呂に浸かっていても、頭の中は絶えず原稿に起こす内容とA君への誹謗を考えていた。そのうち、飲み屋にも行かなくなった。

その生活が続くこと1週間。ついに最後の原稿用紙の最後のマス目を埋めると、コトリと万年筆を置いた。

完成した。一番始めに感じたものは、静けさであった。これまでずっと流れ続けていた思考の濁流の残滓を感じる。心臓の鼓動を今更のように聞き、僕はしばらくの間呆けていた。これだ、昔感じていたこの感覚。しかしなぜだろう、前とはまた違う静かな感覚だ。僕は自然に口角が上がるのを感じた。豪雨のあとの晴れた空のように、Aへの怒りは全て蒸発してしまったようだ。
(僕はこれを、生涯忘れることはないだろう。)
僕は、書き上げた原稿を封筒に包み、近くの出版社へ持っていこうとゆっくりと腰をあげた。外に出ると、春の麗らかな日差しが、背中をあたためた。多幸感に包まれながら、僕は日差しが差し込む石畳を歩いた。

数日後、Bの葬儀がとり行われた。
「まだ若かったのにねえ。」
「何でも、作家志望だったとか。まったく、作家には変人しかいないものなのかい?」
「両親に心配かけさせ、挙句に飛び込み自殺なんて、とんだ親不孝者だ。」
「自殺?あれは事故だと聞いたが、」
雨音に混じるそんな声を聞きながら、さしていた傘をたたみ簡素な棺に向かう人物がいた。そのスーツ姿の人物、Aはやりきれない寂しさを感じていた。どうしてこいつはこの世に別れを告げてしまったのか。事故なのか、自殺なのか、本当の理由は未だわからない。走ってきた路面電車に気付かずに轢かれたとされている。

(君は、僕よりも良いものを持つ人だったのに。)

自殺という噂には、Aも思い当たるフシがあった。あの日の会話から、AはBがスランプであると直ぐに気付いていた。しかし作家が行き詰まることはよくある話だ。外部の刺激をしないでいたほうがいいともいうが、あの日、喫茶店で話をした彼の目は間違いなく行き詰まった作家のそれだった。嫉妬に、焦りに、自己の矛盾する感情に囚われた顔を見ていると、助けたかった。己がそうであったときは、なんとか一人で乗り越えたが、彼も同じように一人で乗り越える人間だろうと昔の付き合いで、わかっているつもりだった。
 そのままじっと立ち尽くしていると、一人の若い娘が近づいてきた。
「あの、Aさんですか?これ、Aさん宛に書かれた手紙らしいんです。Bさんが、渡してくれって」
「あ、あぁ。ありがとう。君は、B君との知り合いなのかい?」
「Bさんは、私の働く居酒屋によく足を運んでいらしたんです。そのうち顔見知りになりました。」
「そうか、ありがとう。」
がさがさと縦長の封筒から手紙を出し、Aは手紙を読み出した。

拝啓、A君へ

やあ、元気にしてますか。僕は、久しぶりに物語を編むことができてとても気分がいいので、久しぶりに君に手紙を送ろうと思ったのだ。僕は、もうずっと長い間書くことを放棄していた。書くと編集の人に叱られる怖さに筆が退いてしまった。いや、これは言い訳だね。本当は君に嫉妬していたからだろうか。それもあるが、一番は己に巣食う怠惰と矛盾だろう。書くことは僕にとって全てだ。しかし自己嫌悪に陥っていた僕は、僕の文章を、表現を全て否定した。そして筆を置き、酒に溺れた。その結果がこのざまだ。笑ってくれ、罵ってくれ。お願いだ。才能ある君を何度心中で罵倒したことか。君の手首を切ってやれたらとさえ思っていたよ。僕は、僕のしてきた努力に過信して甘えていたのだろうか。しかし、書き終えた今、己の生への後悔はなぜだかどこにも見当たらないんだ。清々しいよ、君もこんな感覚を感じたのだね。どうしてか今、無性に幸福で手が震えているのだ。君に会えて良かった、つくづくこれに限るよ。僕は暫く遠い場所へ越さなければならなくなった。もう会えないかもしれないけれど、どうか僕を忘れないでくれ給え。これは僕にできる、最初で最後の君への嫌がらせだ。

さようなら。出会ってくれて、ありがとう。

それから数日後、期待の新人作家が急死したと新聞で公表された。
曰く、その作家の手首は切断されていたという。

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