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ニャるお系小説~転生したら鳴尾駅近辺の猫だったので、さくっとキセル乗車してみた~

作・猫田 歩
 宝塚記念当日。人生を懸けて臨んだその日、目が覚めると私は猫になっていた。茶色と、ちょっと濃い茶色の縞模様。いわゆるトラ猫である。貯金ができればエステにでも行こうかと考えていた腕には、密林のような体毛が生えそろい、手のひらには肉球がちんまりとある。我ながらかわいらしい。
 そんなことはどうでもいい。おびただしいデータとにらみ合い、一つの真実を見出した。今日はその答え合わせの日、宝塚記念。それなのに!
 なんで猫なんだ!
 太陽はすでに頭上に近い。今はいったい、何時なんだろうか。そしてここはどこなんだろうか。
 少し歩くと、阪神線が見えてきた。線路沿いに伝っていくと鳴尾駅に到着した。あまり悠長にしてはいられない。宝塚記念が始まってしまう。
 改札をくぐろうとするとキンコーンとブザーが鳴った。駅員の訝しげな目が私の周りを右往左往する。冷や汗が吹き出す感触がして、そのとき猫も冷や汗をかくのだと他人事のように思った。仕方がないので改札脇の柵の隙間から侵入することにした。
 するとそのとき、後ろから誰かにしっぽを抑えられた。驚きのあまりギャッと声を出しそうになった。振り返ると、そこにはハチワレ柄の猫がいた。
「おい、おまえ。猫のくせにニャんでそんニャところ通ろうとするんだ」
 ニャーニャー鳴いているだけの音しか聞こえないのに、なぜだか言っていることがわかる。
「駅構ニャいに入りたければ、こっちの柵の下から入れ」
 そういうとその猫は駅員の見ているすぐそばの柵を通って、するすると入っていく。駅員が立っている所からもちょうど死角になっている。比較的人が少ない時間帯。その猫と一緒にエスカレーターに一段ずつ乗る。
「電車に乗ってまで、どこに行きたいんだ」
「仁川駅まで」
「そんニャところにニャにしに行くんだ」
 答えようか少し迷ったが、少し興味もあり言ってみることにした。
「今日は阪神競馬場で宝塚記念があるんだ」
 返事はニャかった。

 ホームでは人々がこちらをちらちら見ている。
「猫たるもの、視線の圧に負けるニャ。ニャに事もニャいように凜として、ゆったりと歩くんだ」
 そう言われて、猫の優雅な歩き方を想像した。どれだけ格好よく歩いたとしても、やはりおかしいことに変わりはないけれども、おかげで少し気が紛れた。
「仁川ってことは今津で阪急に乗り換えニャきゃだニャ」
 この猫、やけに電車に詳しい。
「まあ、おれもニャがいからニャ」
 やってきた電車内に入り、座席に二匹並んで座った。これで立派なキセル乗車である。
 なんで猫になってしまったのだろうか。吾輩は猫ではない。そう主張しても、今この世には誰も耳を貸す者などいない。確かに猫にでもなりたいと言ったことは一度とは言わない。しかし、これはあまりにも…。
 今津に着いた。どうか誰も関わってきませんように。そう願いながら猫歩きをする。ラッシュの時間帯とはもちろん比べ物にはならないが、それなりに人通りはある。
「やだ、かわいい!」
 気づいたときには遅かった。すでに四方を女子高生に囲まれていた。数多の腕が自分に向かって伸びてくる。その手が私の背を撫でたとき、これまで味わったことのない心地よさを覚えた。自然と喉がゴロゴロ鳴る。
 若いおなごの黄色い声。しっとりとした肌。これは私が癒されているわけではない。彼女たちを癒しているのである。隣の猫はまんざらでもないような顔をしている。情けない。猫たるもの、もっと自我をもたなければ。
 時計を見ると、今津に着いてからおよそ10分が経とうとしていた。まずい、乗り換えの電車に間に合わない。
「あの、猫さん。そろそろ行きますよ。それともここでお別れしますか」
 と鳴いて、彼女たちの間をするりと抜け出した。
「いや、おれもついていく」
 とついてきた。
 再び人間の視線に晒されながら、阪急線の乗り場までとことこ歩き、車内に図々しく乗り込んだ。西宮北口にて最後の乗り換えをこなす。
「もう、あとは降りるだけだニャ」
 仁川駅に到着した。この後は専用連絡通路を通って競馬場に乗り込むだけだ。いつもの道が、猫になったために視線がガクッと一段下がっている。人の足並みが間近にある光景に少し、気が滅入ってくる。この感情が人間の頃の記憶に影響されているという感覚だけはあるものの、それがどのような記憶であったのかまではもう思い出せなくなってきていた。それだけではない。住まい、交友関係、名前など自分の境遇に関して、もう何を思い出すべきなのかもあまりわからない。私の中にあるのはもう、宝塚記念を見届ける、その執念だけだ。
 場内は人々の熱気と湿気で息をする空気もままならないほどだった。人間だったなら、場所取りも争奪戦となるが、猫となれば事情は違う。間をすり抜けすり抜け、とうとう最前列までたどり着いてしまった。馬が続々と発馬機に入っていく。よかった。間に合った。
「ちょっと待ってくれ、置いていかニャいでくれ」
 ついてきてくれていた猫がいたことを今思い出した。そしてその声が痛切に自分の小さな胸を突く。ごめんニャ。

 ざわざわと騒がしかった場内が次第に一つの方向にまとまろうとしている。スタートが近い。赤旗が振られた。発走時刻一分前を示す合図である。息を呑む人々、誰も呼吸をすることなど許されない。
 永遠のように思えた閑静は次の瞬間、一斉に開いたゲートによってかき消された。
 馬の蹴り上げる土埃が、私のいる反対側にまで風に流されてくる。蹄の音と、人々の歓声がウェーブのように場内を渦巻き、私の鼓動と同化しだす。気が付くと観覧エリアの柵をも超えて、コースの中まで歩みを進めていた。
 行け、差せ。そのように叫ぶ声に紛れ、何だあの猫は、踏みつぶされるぞ、といった人の声が混じる。馬の群集が近づいてくる。まだ踏み荒らされていない芝生を、肉球でそっと撫でる。
 台風のような強烈な塊は、か弱く小さきものを薙いでいく。私も幾度となく踏みつぶされてきた。人にも、制度にも、お金にも。顔も思い出せない多くの人に迷惑をかけ、荒び、終いには家のドアに縄をひっかけた。それからの記憶はさっぱりない。
 そこのけそこのけお馬が通る。踏みつぶされないように、私は馬が通る幅を見越して後ろに下がる。これ以上なく接近した位置で、馬の迫力に圧倒される。最後尾の馬が通り過ぎる。私はいつまでもその背中を追っていた。

「おい、何だあの猫は!」
 馬の行方を追っていた観客は皆、映像に映し出されたトラ猫に度肝を抜かれていた。競馬界トップレベルの馬たちと並走しているのだ。黒光りする硬い毛並みの馬に混じって、茶色と、ちょっと濃い茶色の縞模様の柔らかそうな毛並みを持つその猫は、必死に駆けている。
 その表情、姿が人々の心を打った。勝手に競争しだしたのはその猫に違いないが、なぜかひたむきに走るその姿から誰も目を逸らすことができなかった。
「差せぇ!にゃんこぉ!差せぇ!」
 声援に応えるように、その猫はどんどん加速していく。最後の直線、その猫は一位争いの馬たちの間から負けじと頭を出した。
 行け、気張れ、トラの、走れ、負けるな、踏まれるんじゃないぞ。
 来い、来い、来い、来い。ここまで来い。

 これまで受けたことのない応援にその猫は背中を押されていた。何に触れたのか、その猫が過ぎ去った直後には水滴がきらりと光っているように見える。ゴール直前、その猫は集団から頭一つ抜け出て、そのままゴールを迎えた。

 表彰式、馬たちが並ぶ場所とは別に用意された場所に、一匹のトラ猫がお行儀よく座っていた。いつどこで用意したのか、運営の者が一つのメダルを手に持ち、その猫の首にぶら下げた。特別賞と刻印されたメダルを首から下げたその猫に多くのメディアが殺到し、各々マイクを向けた。
「本日のレースを経て、今のお気持ちをお聞かせください」
 その猫はニャアと鳴いたきり、報道陣の間をするすると通り抜けて、行き先も告げず、どこかへ行ってしまった。      
(了)
本作は、試験的なプログラムのなかで作成しました。本作の表現価値に鑑み、そのまま掲載しています。

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