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遥か彼方で声がする

作:朝日かる

1
 ちょっとあなた、と呼び止められて足を止めた。
 深夜三時の住宅街に人が多いわけはなく、私以外に「あなた」に当てはまるような人間はいない。同時に、呼び止めてくるような人間も滅多にいない。これが噂に聞く職務質問かとやや怯えながら振り向いたが、街灯に照らされて道路の真ん中に立っていたのは一人の女の子だった。同じくらいの年頃だろうか。果たして同じ年頃の女性を「女の子」と言っていいものなのか、そろそろ二十四歳になる私は自分たちの属する位置がよくわからなくなってきているのだけれど。
 そんなことよりもわからないのは、女の子が両手に一本ずつ握りしめているV字型の謎の棒だった。腕と同じくらいの長さがあって、ツヤツヤと銀色に光っている。物凄く端的に不審者であった。

「わ、私でしょうか」
「あなた以外にいないわ。ちょっと手伝ってほしいんだけど」

 女の子はサラサラの黒髪を背中まで垂らし、両手に変な棒を持っているくせにやけに堂々とした態度で立っていた。スキニージーンズに白いTシャツ、白いスニーカーというラフな格好で、私より少し背が高い。目鼻立ちが整っていて、ややきつい顔の美人という雰囲気だ。黒目が平均より小さいのが一層冷たい印象を与えている。美人だが、美人は人を襲わないという話ではないし、美人になら襲われていいという話でもない。私はショートパンツのポケットに入れているスマホに密かに手を伸ばしつつ、にじりにじりと後ろに下がる。

「あまりお役に立てないかと」
「難しいことは頼まないわ」
「警察に頼ってみては」
「警察なんか呼んだら私が捕まるでしょう」

 見なさいよこの変な棒、と右手に持った一本を軽く上げて見せてきた。そんなことをしなくても見えている。そして不審者然としている自覚はあるらしかった。自覚のある変な人が一番怖い。深夜の散歩を趣味にしてから一年ほど経つが、変な人に絡まれる前にやめておくべきだったと今さら後悔しても既に遅い。半泣きで少しずつ後退する私に女の子は容赦なく距離を詰めてきて、あっというまに目の前に立って見下ろされてしまった。今すぐ背を向けて走って逃げようかとちらっと思ったけれど、私が走って逃げ切れるのなんてカメが相手の時くらいだ。無意味だろう。ここで殴り殺されるのかと一瞬覚悟を決めかけたが、女の子は逆に私の手に変な棒を握らせてきた。死にはしなかったが不審者の仲間入りだ。チャンバラでもさせる気なのか。

「ちょっとこれ持っててくれない?片方でいいから」
「なんなんですかこの変な棒」
「何って言われても」

 女の子は一瞬困った顔をしてから口を閉じてしまった。それから自分も片手で棒を握って、ジーンズの後ろポケットから薄っぺたな端末を取り出した。スマホのように見えなくもないが、それにしては小さく、手のひらに収まるほどの大きさしかない。しばらくその端末の液晶を眺めてから、女の子は私の方を見た。

「しばらくそれ持ったまま並んで歩いてくれる?」
「全然意味がわかりません」
「探し物をする道具なの、これ。二人で持たなきゃいけないの。本当に持ってるだけでいいから」
「意味がわかりません!」

 悲鳴に近い声を上げる私を気にすることなく、女の子は勝手に横に並んだ。それから私の元々の進行方向に向かって歩き始める。シルクの布みたいに艶やかな黒髪が歩くたびにさらさら揺れて、毛先が規則正しく空気を撫でていた。少し先で振り返った彼女に「ほら」と促されて、改めて握らされた棒をまじまじと見る。
 未知の形状ではあるものの、手に伝わるのはすべすべした金属の馴染み深い感触と見知った冷たさで、見た目から想像するほどの重量はない。今すぐ何か危険なことが起きるような道具には見えなかった。もしかしたら私が知らないだけで、どこかの界隈では一般的な、本当にもの探し用の道具なのだろうか。ダウジングマシン的な。顔を上げて女の子を見る。私を待っている顔は至って冷静で、いきなり襲いかかってくる様子はない。気がした。

「どれくらいかかります?」
「すぐ済んでほしいとは思っているわ、私も」

 諦めて隣に並んだ。女の子が「ありがとう」と言って笑う。笑うといくらか親しみやすい顔に見えた。

2
「こんな夜中に何してたの?」
「あなたが聞きますか?」

 変な棒を二人して携えて歩きながら、女の子が話しかけてくる。やっぱり道具としては何かおかしいと思う。今見つかったら職務質問で済むかどうか怪しい。明日の朝、不審者情報として近隣の学校に通知されないか心配だ。
 それにしても絶対に聞き手が逆だろうという質問に私が眉をひそめると、女の子は「たしかに」という顔になった。意外と表情が豊かだ。

「仕事中に落し物をしちゃったのよね。明日までに見つけますって上司に約束しちゃったから、見つからなきゃ怒られちゃうの。どっちにしろ始末書は書かないといけないし、怒られるのは決まってるんだけど」

 女の子は憂鬱そうに言って髪を耳にかけ、例の端末を覗き込んだ。無言で目をそらす。捜索状況はあまり芳しくないらしい。印象に似合わずおっちょこちょいな告白内容に、人は見かけによらないものだなと内心思った。私の方は見るからにノロそうな顔をしているから見かけによる。それにしても夜通し探さないといけないだなんてブラックな職場だ。あまり疲れたような雰囲気はないが、この女の子はそんな職場で大丈夫なのだろうか。
 並んで歩く私たちに、夏の夜の湿度がまとわりついてくる。空気が柔らかく、肌を包むように絶えず流動している。冬の夜の刺すように鋭い空気を、夏の間は思い出すことができない。逆もまた然りだ。それでも季節が変わるごとにその手触りと匂いをちゃんと思い出して、私は「夏の夜だ」と確かに思うことができる。何歳になるまで、夏が来ることを嬉しく思えるだろう。むしろどんどん嬉しくなるのだろうか。思えば小さい頃は空気の匂いなんて知りもしなかったから、この嬉しさは何度も夏の夜を過ごした故の懐かしさなのかもしれない。

「私は、夜中に散歩するのが趣味で」
「夜中に?景色も何も見えないじゃない。どうせなら朝にしなさいよ」
「まあ、夜の雰囲気が好きで。月とか綺麗ですし」

 女の子は一拍置いてから「そうなの」と相槌を打った。ちなみに今日は消えそうに細い三日月しか見えていない。しばらく二人とも無言になった。ゆっくりと歩くのでなかなか前に進まない。ようやく最初の一本道を渡り終え、私たちは無言のまま十字路を左へ曲がった。女の子がそうしたからである。時々端末を見る。戻す。以下繰り返し。私は貴重な自由時間に何をしているのか。

「その、何を落としたんですか?」
「見つけたら教えてあげる」

 女の子は短く答えた。これ以上答える気はないという言い方だった。せめて話を広げる努力をしてほしい。誰のせいでこんな時間が生まれていると思ってるんだ。

「あー。私もよく物を落としますよ」
「そうなの?」
「落とし物ってわけじゃなくて、ドジで。しょっちゅう何か落としたり倒したり、そうじゃなくても仕事もできないんですけど」

 昼間の自分を思い出して、今度は私の声が憂鬱さを帯びてしまった。同時に、私が何か気の利かないことをやらかす度に柴崎さんのつり目が無言で角度を増していくことも思い出す。事務員としての上司にあたる柴崎さんは、滅多にハプニングを起こさない。淡々と仕事をこなし、他人のミスを処理し、時間通りに仕事を終える。のろまで人の仕事を増やして回り、いつも何かに焦ってバタバタ走り回っている私とは真逆だ。柴崎さんみたいなタイプと過ごすと、私は相手を四六時中いらいらさせ続けてしまう。

「落として床に広がったものを拾ってる時によく思うんです。人生のこういう時間を全部集めたら、人と比べて合計でどれくらい損してるんだろうって」
「で、そんなことを考えながら夜中に散歩してるんでしょ。余計に時間がかかるわね」
「はい。えっ」

 驚いて見上げると、女の子は得意げに見下ろしてきた。

「図星でしょ。わざわざ夜中に散歩する人間は大体そうなんでしょう」
「に、人間って」

 なんとなく気恥ずかしくて言わなかったのに、しっかりバレていた。口ぶりからすると彼女に深夜徘徊の趣味はないらしいから余計に羞恥心が大きい。変な棒でつついてやろうかと思ったけれど、明らかに私より女の子の方が手足が長くて身軽そうだから、チャンバラバトルになったら勝てる気がしなかった。あとこの妙なV字型のせいでどの部分で相手を狙うのかがよくわからない。
 二の句が継げずに黙る私を放ったまま、女の子は前に向き直って、無理したような明るい声を出した。

「あなたの言うこと、よくわかるわ」
「本当に?」
「今の私を見ればわかるでしょ。生まれて以来ずっとこんなことをしてる気がする時があるの、ちょっとの不注意のせいで何時間も歩き回るようなことをね」

 彼女はそう言って、例の変な棒をくるくると左右に振ってみせる。危ない。ドジを申告したあとで長いものを振り回さないでほしい。ドジは他人の行動を傍から見る時だけ冷静だから、時折自分を棚に上げるのだ。自分の不注意には事前に気がつけないというのに。

「案外どこの誰も似たようなものなのね」
「そうですね」

 会話が途切れ、再び沈黙が降りる。今度はその静かさをあまり苦だとは思わなかった。どこの誰も似たようなもの、という言葉をゆっくりと反芻して、変なV字をくるくるやる。女の子が「危ないわよ」と言ってきた。私たちは人を怒らせ、時間を無駄にし、やたら何時間も歩き回り、時々自分を棚に上げて生きている。
 また道の突き当たりに来て、今度は丁字路を右に曲がった。その時、端末を覗き込んでいた女の子が不意に「あっ」と小さく叫ぶ。心のどこかで全部何かのドッキリかと思い始めていたが、まさか見つかったのだろうか。慌てて女の子の顔を見上げると、彼女もどこか信じられないような、驚いたような顔で画面を見つめていた。

「あった」

3
 道沿いにある小さな公園に、女の子が足早に入っていく。滑り台と砂場、それに古いベンチが一つずつあるだけの小さな公園はがらんとしていて、ほんの数本の街灯で照らされていた。女の子についていくと、外周に沿って植えられている木のうちの一本に、真っ黒な球体が引っかかっている。枝のたわみ具合を見ると、そう重いものではなさそうだった。片手で掴めるくらいのサイズで、野球ボールよりは少し大きいように見える。女の子はほっとした顔で背伸びしてそれを掴み上げた。

「良かった。大丈夫そうだわ」

 女の子は球体の状態を確認してから、思い出したように私の変な棒を回収した。ずっと握っていたせいで体温が移ってぬるくなっている。本当に金属のようだ。女の子は代わりに私に向かって手を出し、手のひらの上に乗せたその球体を見せてくれた。あまりに黒くてほとんど光を反射していない。そういう特殊な塗料があったな、と思う。表面はツルツルで、なんのへこみも装飾もなかった。何に使う道具なのか皆目検討がつかない。
 これといった感想も気の利いた言葉も出てこずにしばらく無言で眺めていると、不意に頭に引っかかるものがあった。女の子を見上げる。

「あの、落としたって言ってましたよね。なんで木の上にあったんですか?」
「船から落としたのよ。ハッチを開けた時にうっかり落としちゃったの。私たちみたいなのは右手と左手で別々の作業をするべきじゃないわね」

 わけがわからず、返事ができなかった。船ってなんだろう。子供の頃に映画で見た飛行船を思い浮かべたが、そんなものはとっくに飛ばなくなっているはずだ。ぽかんとする私に、女の子はニヤッと唇の端を持ち上げて笑った。

「見つかったから教えてあげる。これは爆弾なの。下手に弄ると地球が吹っ飛ぶくらいのね」
「はい?」
「私は宇宙人なの。あなたたちから見て、だけど」

 開きかけていた心の扉が閉じていくのを感じる。不思議な夜の仲間という小っ恥ずかしい意識が消えて、「不審者」の三文字が再び頭の中で煌々と輝き始めた。固まった私に構うことなく女の子は勝手に歩いていって、ベンチの砂を払ってから腰掛ける。長い髪が空気をはらんでふわりと揺れた。隣をぺたぺたと叩いているのは、座れということだろうか。

「帰ります」
「帰ったら爆発させるわよ」

 じろっと綺麗な顔を見ると、爆弾魔となった女の子は肩をすくめて見せた。ずっと横から見あげていたから、数十分ぶりに正面で向かい合う。しかしまさか本当に爆弾だとでも言うのだろうか。それも地球を吹き飛ばせるほどの。しばらく睨み合った末に、結局私が折れて隣へ座った。傍らの街灯に虫がぶつかって、時々小さな音が鳴っている。

「その話が本当だとして、星が吹き飛ぶようなものを落とすミスを私のドジと並べてるのもおかしいですし」
「そんなに特殊なもんじゃないわよ、これ。ものを落とすってかなり初歩的なミスじゃない?」
「落とすものの規模が大きすぎます。さっきの話が本当だったらの話ですけど」

 けろっとして球体を投げ上げてはキャッチする姿にヒヤヒヤする。仮に本当だとして、うっかり起動させてしまわないのだろうか。あと落とさないだろうか。そんなことをしているから宇宙船からも落とすのだ。身に覚えがある。私たちのミスにはもしかして八割くらいの自業自得が含まれているのかもしれない。彼女は平然としたまま、また唇の端で笑った。

「見つかったら教えてあげるって言ってた理由もわかるでしょ?見つからないまま帰ることになったら最悪だものね」

 開いた口が塞がらなかった。生温い空気をなんとか飲み込み、「危ないですよ」とだけなんとか言う。女の子はパシッと球体を受け止めた。

「じゃ、これを持って怒られてくることにするわ。嫌よね、絶対怒られるってわかってるんだもの。でも謝れないような宇宙人になるのも嫌だわ」

 女の子は背もたれに体を預け、顔を上向けてぼんやりと夜空を見上げた。こんな街中では星の光はほとんど見えない。見えたとしてもゴミみたいに小さかった。それでも確かにそこには星があり、本当は一つ一つが巨大で、いずれかは彼女の故郷なのかもしれない。そして彼女の職場があって、上司がいる。途方もない話だが、不審者の冗談だとしてもほんの少しだけロマンチックな気がした。
 上司の前にすごすごと黒い球体を差し出し、再三こっぴどく叱られる彼女の姿を想像する。全く反論の余地がなく、ただ自分を呪いながら黙って相槌を打つしかないということを私もよく知っている。なんとなく、ベンチの上に放り出されていた女の子の白い手をとって握った。絶対に血が通っていないとわかる冷たさだった。

「柴崎さんより顔が怖いことはないと思うので大丈夫ですよ」
「誰なのよ柴崎さんって」
「絶対勝てます」
「勝つんじゃないわよ、謝りにいくって言ってるでしょ」

 律儀に訂正してから、女の子が意外そうな顔で繋いだ手を見下ろす。それから私の手首や腕を順番に見て、顔まで視線を移した。目が合う。

「人間って皮膚が熱いのね?今まで知らなかった」

 覚えておくわね、と言って、彼女はそっと手を離して立ち上がった。帰るのだろうか。どこへ帰るのかは知らないし、どうやって帰るのかもさっぱりわからない。宇宙までバスでも出ているのかもしれない。ベンチに座ったまま動けない私を見下ろして、女の子は「それじゃあ」と友達みたいな調子で言った。

「ありがとう、お陰で助かったわ。散歩の邪魔して悪かったわね」
「できれば地球は吹き飛ばさないでくださいね」
「あなたがいるうちは吹き飛ばさないであげる。ドジが減ると困るから」

 綺麗な顔で彼女が笑った。瞬きした次の瞬間、その姿は忽然と消えて、街灯を反射して煌めいていた黒髪だけが僅かにその軌跡を残す。やがてそれも、まるで最初から無かったかのように湿った空気に散っていった。本当に地球の生き物じゃなかったらしい。

「帰ろうか」

 誰にともなく呟いて、私もベンチから立ち上がった。地球の生き物なので歩いて家まで帰ることにする。そして明日も出勤して、多分柴崎さんのつり目を見る。せめていつもの半分くらいの角度に留めておけるようになりたいと思った。ただ悪意のない、小さな人間であるしかないだろう。地球を吹き飛ばせるような宇宙人もまた然り。

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