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花占い

作・めのう

 花占いというものを、私は一度も試したことがなかった。せっかくなら、答えが予想できないほうがきっと楽しいと思って、花弁の多い花を探すことにした。
 私の家の庭は広くない。広くないし、殺風景である。例えば植物に対して、芝生と雑草の区別がつかないような、その程度の興味しか持ったことがない。どの花の苗を、どんな日当たりの場所に、いつ植えればよく育つかを、調べたこがとない。玄関を出て、もう長らく磨いていない石畳の上を歩くと、かつかつと足音ばかりがよく響く。隣に住んでいる老夫婦は、毎朝庭の手入れをしている。今日も奥さんは、私には雑草か芝生かきっと区別できない草をひいているので、
「おはようございます」
と挨拶をする。見れば見るほど青々として、きれいな庭だ。この前新しく植えていた苗も、もうつぼみを付けている。
「あら、おはよう。いってらっしゃい」
奥さんは笑顔で返してくれる。これが、私が今朝起きてからの最初の会話になった。
 私の家には花がない。今から家を出て、この町の花屋さんをできるだけ全部めぐって、私の人生初の花占いにふさわしい一輪に出会いに行くのだ。

 横断歩道を渡るときは、今もまるでランドセルを背負っている気分になる。黒いところを踏むとどうなるのだったか、はっきり覚えていない。聞く人によって、どうなるのか変わっていたような気がする。とにかく白い部分さえ踏んでいれば安全だった。信号が青に変わって、まず一歩目を踏み出すとき、つい白線を踏んでしまう。でも、いつからだったか、渡りきる少しだけ前、あと白線二本くらいのところで歩幅を変えるようになってしまった。私の足は黒いところに着地して、もう一歩踏み出したときには今までの歩幅のリズムが全部狂っている。
 それで奈落に落ちることも、鮫や鰐に喰われることもないことを知ってしまった。それを知る背徳感のことも、もうわかっている。私が二度と、あの頃に戻れないことも、同時に痛感するのだ。

 バスに乗って、最寄りの小さな駅まで行く。大きなショッピングモールがあるわけでも、観光名所になるようなアイコニックな建造物があるわけでもない。でも、生活するために必要なものがきちんとすべて揃う、優秀な駅前だ。
 バスが停車してドアが開く。料金を支払って、一歩車外に出たとたん、私の鼻腔を潮の香りが埋め尽くす。ここから南へ数分歩いたら、海がある。ここは古い漁港の町だ。商店街には今もその名残がちゃんとある。安くておいしい、新鮮な海鮮食堂や、店先で常連のお客さんと話している魚屋さんが、今もたくさん残っている。これでも、随分と数を減らしてしまったほうで、新しい建物や、スーパーマーケットももちろんある。また、再開発の話も浮上していると小耳に挟んだこともある。
 私は、どうか、この町の香りが今後もずっと、少しでも誰かの記憶の片隅に残るものでありますようにと願ってみたり、そんなことはすっかり忘れて歩いてみたりする。

 一軒目のお花屋さんは最近出来た商業施設に入っているおしゃれなお店だ。開店当初から気になっていたこともあって、最初に向かうことにしていた。鮮やかな花々が、まるで商品ではなくインテリアですよと主張するかのように並ぶさまは、絵本に出てくるお城の庭園に迷い込んだかのような錯覚を私に引き起こさせる。こんなかわいいお花が似合うお部屋に住むことが、幼いころの私の夢だったような気がする。
 いつの間にか、家具も、インテリアも、実用性重視、流行り廃りの少ないデザインかどうかが購入の基準になってしまった。毎日、勝手に過ぎてゆく時間に何とか追いつくことだけが目標になった。意匠の凝らされたものを選ばなくなって、気が付いたときには、ドレスなんてちっとも似合わない人間になっていた。
 私が今日探しているのは、花占いに使う花。花弁が大きくて、たくさんある花。私は今日、それだけを探している。だから、どんなに美しい花を見ても、かわいい花を見ても、目が滑る。

 お店を出て、少しだけ狭い路地に入る。いまだに地図が見たくなるような入り組んだ構造の道だ。この道で野良猫はよく迷わないな、と思いながら歩く。高いビルが建ち並ぶ様子のことを、空が狭いと表現することがある。この路地は住宅街で、せいぜい三階建ての住居しか見当たらない。でも、ここを通るたび私は、空が狭いなと思う。見上げると、電線が右から左へ、左から右へ流れている。あみだくじができそうだ。辿って行っても終わりがなくて、二択もずっと決まらないあみだくじには何の意味もないとわかっていながら進む。
 しばらくすると三叉路にでて、しばらく続いたあみだくじは急に線の量を増やして、ぐちゃぐちゃになってしまう。あーあ、わかんなくなっちゃった。そんなものよね、などと考えているうちに、道が少しずつ広くなって、車や人の通りが出てくる。もう、空を見上げている暇なんてなくなってしまった。

 川沿いに出る。水の流れる音が聞こえる。もう少し上流までさかのぼっていけば、私が昔よく遊んでいた場所がある。水位が上がっていなければ川まで降りていける大きな階段があって、そこでぼんやりとアメンボを観察したり、藻が水流で揺らいでいる様子を眺めたりした。それを、何段か上から祖母が見守ってくれていた。そういう記憶が蘇る。水遊びをしている友人もいたけれど、私は水の中に入っていくような勇気も、無邪気さも、持ち合わせていない子供だった。
 橋の上から水面を覗くと、鴨が二羽泳いでいた。魚を食べているのだろうか。あれ、鴨って肉食だっけ。それとも、藻や水草を食べる草食なのかな。疑問に思ってもこの場で調べないからだめなのだろうな。そこまで考えるくせに、やっぱり調べないまま、通り過ぎた。

 二軒目のお花屋さんは、小さい店舗にお花がところ狭しと並んでいる、古いお店だ。建物の壁から大きなブーケが飛び出しているみたいだと、お店の前を通るたびに思っていたけれど、そのブーケの構成ひとつひとつをゆっくり見ようと思ったのは、今日が初めて。花弁が大きくて、たくさんある花はあるかしら。少しだけ気取って眺めてみる。
 中学生のころ、クラスで勿忘草が流行ったことがある。「私を忘れないで」という花言葉とともに、女の子の間で瞬く間に知名度を上げた。きっと誰しも、切ない恋にあこがれる時期があるのだろう。両想いで結ばれる物語よりも、叶わなかった片思いのほうに思いを馳せたいこともあるのだ。私がそれを知ったのは、もうずいぶん勿忘草が浸透してからのことだったので、何が、あるいは誰が流行りの中心だったのかは知る由もなかった。「私を忘れないで」と懇願したくなるような経験もしたことがなかった。それどころか、勿忘草というのがどのような植物なのかも、知ろうともしなかった。
 今私の足元に、「わすれな草」と書かれた値札のついた鉢植えが置いてある。青い小さな花が咲いている。なんとなく、勝手なイメージで、花束が作られるような植物かと思っていたのに。なあんだ、ちゃんと根を張っているんじゃないか。拍子抜けしたような、安心したような心持ちで、店を離れた。

 お腹がすいたので、近くにあったカフェに入った。このお店のパスタセットが絶品であることを、私は知っている。今日の気分は、和風きのこパスタかな。ドリンクはココアがお気に入りだ。以前飲んだコーヒーもおいしかったけれど、今は家に買いすぎた豆があるので、あまり外で飲まないようにしている。本当は食後にミルクレープも食べたいけれど、今日はまだ行きたい場所があるから、自重することにした。
 パスタは、家で作るよりも外で食べるほうが好き。というよりも、私がおいしいパスタを作るのが苦手なのだ。せっかくだし、と思ってよくパスタを頼んでしまうので、きっと私はパスタが大好きな人のように見えているだろう。別にそれで良い。麺類の中で一番好きなのは、夏の休日に、お昼に起床して寝ぼけ眼のままで茹でて食べる素麺です。と正直に明かすのは、私の秘密を打ち明けるようで、背筋がすっと冷える感覚がする。

 大通りを少し歩いて、南へ向かう。今日はよく晴れているから、きっと海が綺麗だろう。昔は頻繁に遊びに来ていたけれど、最近はあまり足を運ばなくなった。堤防から海を眺めることよりも楽しいことや、面白いことを、私はきっと知りすぎてしまった。海を見に行こうと誰かを誘って、何時間もただお喋りするだけの時間を、作ろうと思わなくなってしまったのはいつからだったかな。波の音や、海の匂いが懐かしく感じてしまうようになってから、もうずいぶん経った。
 帰りに立ち寄った漁港の直売所で、近海でとれた海苔を使用した、大きな焼き海苔を購入した。お家にいても、即席潮の香りを味わえてしまうな。おにぎりにして、おいしく食べてしまうけれど。

 三軒目に訪れたのは、私が昔、一度だけ利用したことがあるお花屋さんだ。部屋に花を飾ってみたくて、初めて花瓶を買った。花瓶のデザインばかり気にして、肝心の花のことがすっぽり頭から抜け落ちていたので、仕方がないからじっくり悩むつもりだった。でも、店内に飾られたアレンジメントに使用されていたカスミソウを見たとき、すとんと腑に落ちたように、購入を決めた。アレンジメントでは、主役である赤い大きな花のまわりに散りばめるように配置されていたけれど、花瓶に挿したたくさんのカスミソウは、私の部屋で確かにいちばん目を惹いていた。
 でも、今日探しているのは違う。花弁が大きくて、たくさんある花も今までのお店にもたくさんあったし、このお店にも、いくつか置いてある。いくつもありすぎて、私には選べないままだ。こんなとき、もっと植物に詳しければ、なにか選ぶ基準となるものがあったかもしれないのに。

 結局、何も買わないまま家に帰ることにした。まあ、そんなことだろうと思ってはいたのだ。私はいつもそう。昔は、何を買いに行ったのかすっかり忘れて、両手いっぱいに、関係のない買い物袋を提げて帰路に就くこともあった。それに比べれば、今日はずっと有意義なお買い物だったと思える。
 人生初の花占いの結果は、「占うほどでもなし」というところだろうか。

 歩き疲れてしまったので、帰りもバスを使うことにした。坂道を登ってゆくバスに揺られているうちに、眠気が押し寄せてくる。でも、ここで寝てしまえばきっと乗り過ごす、微妙な距離。バスに乗れば、歩けばよかったなと思うし、歩いて帰れば、バスを使えばよかったと思う距離が、厄介だけれど、憎みきれない。
 家の前で玄関のカギを探していると、お隣の奥さんに声をかけられた。
「あらおかえりなさい。そうだ、申し訳ないんだけど、ひとつもらってくれない?」
手渡されたのは、白くて小さな花。黄色の中心に、いくつもの細長くて真っ白な花弁がついていて、子供がクレヨンで描くような、「お花」の形をしている。綺麗だけどこれ、なんていう種類の花ですか、と聞く勇気があったらよかったのに、まだ持ち合わせていない。
「主人がね、いくつか切っちゃったほうが、鉢植えのバランスがいいって言って聞かなくて。綺麗に咲いていたし、もったいない気がするんだけどねえ、今、とうとう切っちゃったところなの」
続けて奥さんが言うので、
「そうですね、とても綺麗です。ありがとうございます」
と返す。いつも素敵なお庭で、尊敬します。と続けるか迷っているうちに、奥さんが家の中から呼ばれて、それじゃあね、と帰ってしまう。

 家に入ってすぐに、適当なコップに水を入れて、さっきもらった花を挿してみる。一瞬、この花弁で占おうかとも考えた。花弁の一枚をつまんだところで、やめた。一度諦められたのだから、今はもういいの。そういうことにしているけれど、私は結局、占って、結果が出てしまうことがどうしようもなく怖いのだ。まだ、曖昧なほうが救われるような、弱い人間なのだ。コップは、ダイニングテーブルの上に飾ろうと思ったけれど、あまり片付いていなくて、嫌になったので、窓辺に置いた。
 これから数日かけて、あの花はゆっくりと萎れていってしまうのだろう。そうだ。カスミソウもそうだった。そのさまを毎日見つめるのがどうしようもなく寂しかった。カスミソウが萎れてしまって、空っぽになった花瓶を仕舞い込んだのは、そういえば、そういう理由だった。
 さて、今の私は、そこに風流を見出せるでしょうか。それともまた寂しくなって、目を背けてしまうのでしょうか。
 本棚から、少し埃のかぶった古い植物図鑑を取り出す。古いけれど、開き癖がちっともついていない。一から自分で調べようと思った。次に花占いをしたくなったときのためにも。

 当初の目的を果たせなかったくせに、悪くない一日だった。この先ずっと長く続いてゆくのであろう私のたくさんの一日が、悪くないものでありますように。長く続いていくことを、想像できる日々でありますように。何も残らなくても、愛おしいものであれば、それだけで良かったのだ。そのことを、この愛おしい日々を、一日でも長く、忘れないでいられますように。

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