胸の期待を一旦下げとく
後輩の相談に先日のった。良かれと思ってやったことがうまくいかなかったらしい。かなり余裕がない中でも気を利かせたそうだ。結構メンタルにきているように見えた。
いや、ちょっと恩着せがましくない?
思いやりの60%くらいはうまくいかない。というか、うざがられている。
気を利かせるのは相手から自主性を奪う行為である。人の行動を予期する、そして、その選択を未来から奪ってしまう。ある人が見えていた道のりを、勝手に閉ざしている。言うなれば、分岐器が独り手におりているようなものだ。
予定されていたルートと違えば、列車はパニックを起こすだろう。あっさり頭を切り替えるのも難しいし、かと言って分岐器の言いなりになるのも癪に触る。暴走機関車と言われようともまっすぐ破壊への道を選ぶ。
仮に相手が思いを汲んでくれたとしてもちょっとした気持ち悪さは残る。
そのくらいで私が思い通りになるとでも?と斜に構える自分がいる。結局私の行動をコントロールしようとしているんですよ。ありがとう待ちされている時が一番気まずい。社会人のマナーとして言っているだけで心なんざ込められてないからなと言いたくなる。
うまくいっているように見える思いやりの40%。ムカつきを覚えているけど吐くほどでもない時と同じだ。別に嫌な奴になるほどではないから何も言わない。けど、イラついている私の今はここに紛れも無く存在している。
それでも「思いやり」するのはなぜだろう?
どこかいつも社会の、人の役に立ちたいという意味を抱いている。まともにしっかり生きて歴史に名前を残すのは滅私奉公する人だ。「思いやり」はそんな人格に近づく一歩のような気がしている。
レベルアップして人格を磨いていればいつかはマシな人間になれるだろう。そう祈りながら今日も「思いや」っている。
だが、その実「思いやり」のほとんどはエゴだ。目の前にいる人間をパターンに当て嵌めた攻略書。そこには自身のレベルアップしか存在しない。
思いやりされ続ける側の気持ちになってみてほしい。
私はいわゆるステレオタイプ的な日本人とは少し異なる容姿をしている。観光客が増えた東京で、見当違いの思いやりをされることも少なく無い。きっといい人なのだろう。英語用のメニューを渡してくれる店員さん、パスポート検査場で3度も4度も観光客用のレーンに並ばせようとする職員さん、英語の練習に話しかけてくる小学生たち。
望んでもいない思いやりは負担だ。
それを勝手に解釈し、ましてや拗ねることの不毛さと言ったらない。
と考えていたら、今日私も「思いやり」を拒否された。咄嗟に頭に血が上り、そこそこ時間をかけて入手したデータを全削除した。困るのは私(をはじめとするみなさま)かつ、一番損するのは私である。
恩着せがましいくらいで生きていた方がきっと幸せだ。カリカリ考えてないでちゃんと寝た方がいい。