
岸政彦『調査する人生』|読書記録
概要
★打越正行編:沖縄のヤンキーたち
・暴力を丁寧に描くこと
「暴力の連鎖」という単純な言葉に昇華されないように、暴力がどんな背景で、どんな意味があるのか、コントロールの中/外にあるのか。
・読み手と調査対象の距離を遠ざけ、近づける。
「こんな別世界もあるのか」という遠さ、自分も同じ状況にあればそうしてしまうかもという近さの両方がある。
★石岡丈昇編:フィリピンのボクサー
・誰か一人が悲しい話をしたとき、周りの人間たちはそれを見て、泣き真似をし始めた。泣き真似をして茶化すことで笑い話にして、乗り越えようとした。
・ボクシングという毎日決まり切ったやることがあること。
感想
・「たくましい」でも「かわいそう」でもない。
貧困や差別の中で生き抜く人たちに対して、たくましいでも、かわいそうでもない。
ただ、そこで生きる人たちがいるんだという事実をそのまま理解するってことかもしれない。
・ライフストーリーやナラティブ研究ではない。一般化されうる社会学的なもの。
一人の人生史には、「わかる」となるポイントがある。
環境や状況に応じて、人が取る行為の選択はどこか合理性があるのだ。
生活史は決して一人の人の人生に入り込み、一人の人間を理解するためではない。一人の人生から、一般的な社会学を目指すのだという。
それは、出来事の意味づけや解釈ではなくて、あくまで行為をベースとして、どのような状況でどんな選択をして行為をするのかという視点から生活史を研究するらしい。それはきっと行為が実存的なものだといった前提があるのだろう。
・質的社会学は、仮説を増やすこと・例外を見つけること。
一人の生活史を理解することが一般的な社会学を目指す故に、
社会学の当たり前となったことを乗り越えること、例外を見つける役割がある。
・話を聴くことで保守的になる。
沖縄戦で家族が集団自決をして、生き残った人。
それでも米軍に食料をもらうなどして生きてきたから、基地は賛成派である。
そんな背景を生き抜いてきた人の前で、基地は反対すべきだとは言えないと岸は言う。
それでも、基地は反対しないといけない。その線引きをどこで引くのかって難しい。
・どの立場から生活史を読むのか。
生活史を読む人は「聞き手」に自分を同一化して読む。
語り手に自分を同一化するのではなくて、一緒に聴きながら読む。
そんな聞き手を増やすことが、結果的に社会の視野を広げることになるのではないか。