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2024年総括 キュレーションってなんだ…?

去年結局ぜんぜん更新できずすみませんね…本年もよろしくお願いいたします。


公園のすべり台のうえより

わたしは去年の春からキュレーションを学んでいる。学んでいる、といってもかなり受動的な「身体での」学び、といった感じだ。
この一年は「キュレーションって、なんやねん」と考えさせられ続けた一年だったように思う。

「学ぶ」と聞くと、誰かが「集合知・論」の形で教えてくれたり、物理的に形になっているもの―本や論文―を参考にしたりする行為のような響きがする。キュレーションはさっぱりそういうものではないのだなあ、ということがまずわかり、「自分、そういうものホンマ好きよなあ」と再三わかった。

最初のほうは、とりあえず授業で名前が出ていた文献や、経験や知識のある学友が教えてくれたものに触ってみた。何もわからないときのために「とりあえず聞いたことある」カバー力を養う目的だ。自分の記憶力に全ベットした。脳がかわいそうすぎる。

しかし読んですぐ、本当に必要なときに読まなかったらあんまりピンとこないんや、と思った。特に「キュレーション 『現代アート』をつくったキュレーターたち」を読んだときに、

「キュレーターにその展覧会がどういう意図でつくられたか話を聞いても、基本的に当時のシチュエーションや当人の問題意識の部分で語られる」

のだと気づいた。現代美術のシーンの主なイベントや、当時の社会情勢を正しく理解していなければ。そしてそれが展覧会をつくるときにどう関わってくるか「知って」いなければ、本のなかで言っている「キュレーション」に反応できない。みんなどこから建てるか違っても「展覧会の建て方」を知っていることと、背景が見えていることを前提にしているからだ。そこらへんで自分がずっとトンネルのなかにいるのだ、とも気づいた。

トンネルのなかは怖い。どこからどうすれば外がみえるようになるのかもわからない。
そういうわけで一旦読むのをやめた。読み物としてはおもしろいのでオススメです。

そこからは意識的に「流される」半年だった。
誘われたプロジェクト、授業でもった展覧会、担当する発表。学芸員授業でパンクする日もあったけど、詰めるたびに冴えていく感覚があるからやめられない。バンドを狂うようにやっていたころから変わっていない。

次の「もの」がやってくるまでに、8ヶ月強をまとめておかなければ、と思って今筆を握るないし、キーボードの上でむすんでひらいてしている。

やってみて初めてわかること

一年のあいだに、キュレーションを2度経験した。
片方はプロジェクトの形をしており、もう片方は展覧会の形をしていた。

やってみて「わたしの身体で」学んだことを記しておきたい。断っておくが、これは現時点での自分個人のラフな考えであって、これをどうするかはこれからの自分に委ねたい。し、次の展覧会をやるためのヒントになると思うので、一定のアクセスを保証する文章の形にまとめておきたい。ノリで口から即出てくるリリック、フローとは違うものとして。

1.キュレーションは陳列ではない、とおもう。

 それまでぼんやりと「キュレーションって、持ってきた『作品』を一番よく見せるための方法なのだろう」と思っていた。それは決して間違いではない。事実照明の当て方や什器に凝ることはその一部である。しかしその「作品を見せる」見せ方は博物館学的な「モノを見せる」考え方とは違う。陳列は博覧を導くので。キュレーションは「陳列への意識を包含している」という表現のほうが正しい。モノが複数集まって展覧会ないし、プロジェクトを形作っているのは共通点だが、集めたあとになにを志向しているかには違いがある。そしてその違いはキュレーション≠陳列たらしめる、ように感じる(ただしキュレーションのなかには陳列の性格を主人格として持つものもあるとは理解している)。

2.キュレーションは線状ではない、とおもう。

 陳列とキュレーションを比べると、「何次元にまたがっているか」の違いが観察できる。何次元、というのは感覚的な比喩であって、まだその超・正体はわかっていない。「意図の種類」のような気もするし、「意図の本数」のような気もする。糸だけに。なんちって。
 展覧会を前年と比べて多くみているうちに、展覧会の「においみたいなもの」がかげるようになってきた。人の印象をかぐのと似ている。においはまっすぐ出ているときもあれば、蛇行しているときもある。
 層もある。つかみやすい層と、見えにくい層と、大きな層と…ここらへんをきちんと言語化できるようになるとよさそう。特に「展覧会という形態ではないキュレーション」を行うときにもっと観察したい。

3.キュレーションの文章は、鑑賞者の初期設定のためにある、とおもう。

 キュレーションの文章は展覧会を説明するためのものではなく、やってきた鑑賞者がこれから作品をみることに不自由がないように、アバターの初期設定をするためのもの、という理解になっている。タイトルはそのアバターが動く環境の構造を適切に、かつ鑑賞者に寄せて短く体現する必要がある。
 いつのものか忘れたけれど、芸人のラジオを聞いていたら、「ネタをやってウケないときで、一番悲しいケースはお客さんに『なにがやりたいか伝わらなかったせいで』ウケないケース」という話があった。だから初めてネタをおろすときは、そのケースを避けるために喋りすぎてネタ時間が長くなってしまうというのだ。なにがやりたいか伝わったうえで、ウケないのならそれはそれでよい。
 キュレーションも似たところがあるように思う、「なにのためにつくられた・できたか」は伝わったうえで、はまらないならよい。その人の鑑賞経験は、はまらなかったこと含め、その人のものなので。

4.キュレーションは気象学に似ている、とおもう。

 タイトル・ステートメント、作品の選定や、作品の配置として目で見るけれど、「実際には見えることのない部分」がキュレーションの主人格のような気がする。そしてそれは気象予報をするときに似ている。高気圧と低気圧があって、その間に気象現象が発生することを知っている。
 エマグラムを書くようにフロアプランやプロジェクトプランを書き、読み上げ原稿をつくるようにステートメントをつくる。よく似ている。
 作品の前に、波紋が広がるように「気の勢力」みたいなものをみる。ことがある。それが別のなにかとぶつかって、わたしになにかを感じさせたり考えさせたりする。予報はキュレーターの想定と似ていて、でも実際になにが起こるかはわからない。よね。



「うねる、キュレーション」

ということでようやくスタートラインに立ったような気持ちがしている。
ライフワークとしてやるのかい、やらんのかい、どっちなんだい時代に突入。考えることが山積みになってしまった。

しかし足を踏み入れた者なりに思うのは、キュレーションに「静的なもの」が多く、「動的なキュレーション」をみることが少ない、という点だ。

静的・動的という言葉が正しいかはわからない。でも、展覧会を観に行ったときに「こちらの予断をゆるさない」ような、と言えば耳障りな響きかもしれないが、それでも「身動きが取りにくい」展覧会ってあるな、と思わされたことがある。展覧会のキュレーション=キュレーション全体ではない、かつ美術館の空間が静的な性質を引き受けている部分もある、という前提のうえで、それでも「身動きが取りにくい」。けっしてそれがダメとは思わない。でもわたしはいつも人生におけるチャリ用道路を走ってきたような人間なので、「それでいいのかなあ」と思うだけなのだ。

わたしは音楽の出だから、という影響が大きいだろうが、「おまえはおまえのリズムで踊ればいい、それがおまえのダンスだ」を美術でもやっていきたいと思っている。鑑賞者に「おまえのダンス」を踊ってみてほしい、と心からおもうのだ。

先日授業で別研究科の教授と話す機会があったときに、
「どこまで言語化するか、ではなく、どこから言語化しないか、がキュレーションで考えていきたい部分なんです」
となんとはなしに伝えたのだが、その教授は
「それってすごくだいじだし、本質的だと思いますよ」
と答えてくれて、そのあとしばらくうーんと唸っていた。困らせてしまったのかもしれない。経験と一緒に提出するべき話題でありました…。

どこから言語化しないかは、すなわちどこから「おまえのダンスになるか」。
タイトルやステートメントという名の、リズムは必要か、要らないか。
リズムでさえおまえのハートビートなのか。

データ化しきることのできない動きを愛していきたい、うねりのような。
うねりって言葉が好きなんだ、次バンド組んだらバンド名にしたいくらい。
だからキュレーションでもうねっていきたい。と思っています、心から。

そんな2025年!


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