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死にたくなったから遺書を書いてみる。
死にたい。
さっきベランダの柵を越えてウロウロしてみた。
ベランダの下を覗き込んだことはあったが、今の家で柵を越えたのは初めてだった。
柵を越えて飛び降りるにも、下の階のベランダがせり出していて、6階である自宅から飛び降りても5階に落ちて怪我するなぁ。
キャンプ用の椅子を出して、椅子に腰掛け、空を見上げてみた。
星がちらほら。
うちのベランダからは夜景も少し見える。
あのキラキラ光る都会の中に、私の行きつけの飲み屋さん入ってるかなぁ。
※以下遺書
私はよく笑った。周りの人に恵まれて、友だちに恵まれて、よく笑った。笑い声が大きすぎて、仲の良い後輩に「うるさ!笑」って言われるくらいには、大きな声でよく笑うタイプの人間だった。
けど、本当は笑って周りを巻き込みたかった。私が大声で笑うと、周りもつられて笑うから、先陣を切って笑った。
仕事は教師をした。
3度目の正直で受かった。頭は特段いい訳ではなかったので、勉強で勝負するより、面接で勝負した。面接本に載っている例のようなことを言わないように、自分だけの経験を語れるように、知らない人たちの元に飛び込んで面接だけは悔いがないくらいに練習した。そして受かった。
念願の教師。
受かる前にも、講師という形で初めて教師を経験した。支援の担任だった。私の担当した子は、言葉は喋れないけど、自分の手を自分の口に当てて「ブーー」と音を鳴らして、挨拶をしてくれた。音楽が大好きで、隣のクラスからピアノの音が聞こえると走っていき、教室に入った。そのときの先生は、「○○っち(あだ名)、おはよう!」と、笑顔で迎えていた。そのクラスの子どもたちも笑顔で「○○っち、来たね!」と嬉しそうだった。
私は病休に入る先生の代わりの講師で、2ヶ月という短い期間だったが、子どもたちからたくさんの無償の愛をもらった。
教師は与えるんではなくて、もらうんだ。ありがたい仕事だ。子どもはいつも教えてくれる。こんなに目の前で日々成長していく姿を見られることは、とても幸せだった。
講師2校目は4年生の担任をした。初めてのクラス担任。赴任して2日目に、窓から飛び降りようとした女の子がいた。教室の真ん中で縄跳びをする男の子もいた。とにかく大変だった。何度も泣いたけど、それでも、子どもと向き合おうと思った。家庭訪問もした。授業も集団作りも、右も左もわからず、とにかく下手だったと思うけど、一緒に遊んだり、話し合ってみたり、ときには叱ったり、自分の素直な気持ちを伝えたり、悪戦苦闘しながら毎日を過ごした。
クラスの子どもの中には、家庭の背景もあり、自分をもっと見て欲しくて問題行動を起こす子もいる。本当は誰よりも寂しくて、自分を理解して欲しくて、でも出し方がわからない。自分をもっと見て欲しいから、とにかく注目を浴びるために、問題行動という形で人の目を引こうとする。
家庭の背景は子どもたちそれぞれ違う。けど、学校という場所は、平等に与えられる。だからこそ、この平等な場で無償の愛を注ぐことは、家庭環境の複雑な子どもにとって、居場所を作ることになると思った。そう思いながら、下手くそながらに仕事をしていた。
そんな中、同じ学年の先生からパワハラを受けた。
初めて「死にたい。」と思った。医者には適応障害と言われた。
子どものことは辛くても、なんとかやり切りたい思いだった。毎日一体何をしていたのか今では思い出せないくらいだが、とにかく要領が悪くて、毎日夜遅くまで仕事をした。
ある日、同じ学年の先生2人に廊下で囲まれて、「そろそろ足並みそろえませんか?」と、威圧された。普通の授業こなすだけでも精一杯。単元の時間的もギリギリで組まれてるから元から無理があるのに、投げ込みの授業を、研究授業のために入れられた。それも含めて授業を終わらせろということだった。
今ならわかる。元々の授業に加えて授業するのではなく、それにあたる単元と差し替えるべきであること。けど、当時は初めての担任でわからなかった。
さすがに私の顔色が悪いのが続いていたのか、私の異変に気がついて声をかけてくれた先生がいて、「最近死にたいと考えることがある。」と吐露した。その先生は、すぐに校長に一緒に話をしに行ってくれて、次の日から病休で休むことになった。
休んでいる間、クラスの子どもが手紙をくれた。「先生元気?私たちは元気に頑張ってるよ!先生が元気になったら戻ってきてね!」「大好き!」「先生やめないでね!待ってるよ。」と。
保護者の方からも手紙をもらった。その保護者は、うつの経験者で、私の体調を気遣ってくれた。自分の息子は、先生に励まされていたと、私の心が健康になることを第一に願っていると、綴ってくれた。
こんな状況でも、応援してくれる人がいること。
辛い中でも、私は幸せだった。
結局復帰することはできなかったが、代わりに担任を受け持ってくれた先生が、離任式に出るように声をかけてくれた。とても悩んだが、子どもが原因で休んだ訳ではなかったので、最後に自分の言葉で、感謝の気持ちを子どもたちに伝えたかった。モラハラ先生には嫌な顔をされたが、子どもたちとはお別れすることができた。
あのときは、最後まで担任できなくてごめんね。
それでも、先生を続けてね、って言ってくれてありがとう。
3校目は、正規採用として赴任した。
リスタート。大規模校で同期5人に恵まれた。
またもや、要領の悪さを発揮し、初任者指導も加わって日々やることは無限。厳しく指導されながら、失敗したら頭を下げながら、毎日0時を超えるくらい終わらない仕事をこなして、限界が来たら帰った。
同期は、よくできる子の集まりだった。私はいわゆる落ちこぼれ。仕事ができないことが、常々コンプレックスだった。
先の見通しを立てることや、優先順位をつけるのが苦手。目に入ったことから取りかかり、本来やらないといけないことを忘れる。迷惑をかける。ほんとに、ポンコツだった。なんでみんなはあんなにできるんだろう?と思っていた。タスクをメモに書いて対策してみたが、書いたこと自体を忘れていたり、メモが物の下敷きになって結局忘れている。手をつけた仕事はそれは後でよかったやつや、適当にすればいいやつなのに、適当にこなせない。ADHD気質があることに自覚しかなかったので、脳の機能的にそれを緩和させる薬をもらいに、専門の病院に通院していた時期もあった。
1年目は4年生の担任だった。前のこともあり4年生が私の中ではトラウマだった。いろいろあったが、子ども思いの素敵な先生と一緒に学年を組めたことで、1年をなんとか乗り切った。
2年目。2年生を受け持った。前の人とは別物だが、またパワハラ先生と組んだ。その先生は常にイライラしている。でも、上司や好きな先生への、ごますりは上手い。仕事も早い。けど人によって態度を変える。その先生のクラスの子どもを、他のクラスの子の前で罵倒する。「お前らはバカやからできへんねん!」と。(そんなことない。)と思いながら、その先生のクラスの子どもたちを守ることができず、悔しかった。
その1年を、なんとか乗り越えた。
クラスの子どもたちと、最後の日には、1年間をふり返る写真のスライドショーを用意して、一緒に見た。クラスの友だちのいろんな場面のいろんな表情を見て、みんなで笑った。
困っている子がいると、助けてくれる友だちがいる、そんなクラスだった。自分ができなかったさか上がりができるようになった子が、次は友だちができるように、休み時間にも一緒に鉄棒をしに行って、一生懸命、そして優しくお友だちに教えている姿に、子どもたちのピュアさに、成長に、私が何度も励まされた。感動した。学ばせてもらった。
修了の日。本当に最後の帰りの会がやってきた。1学期から毎日歌っていた「にじ」や、3学期から歌い始めた秦基博の「ひまわりの約束」を、最後にみんなで歌った。
クラスの思い出をふり返りながら、このメンバーでこの歌を歌うのはもう本当に最後なんだと思うと、涙が溢れた。気がつけば、私だけじゃなく、クラスのほとんどの子が泣いている。そんな子をみて、教室にあるトイレットペーパーをちぎりに行き、それを丸めて、優しく、ぽんぽんとお友だちの涙を拭く姿を見て、またさらに泣いた。本当にいいクラスだったなぁ。私にとって、一生の思い出の一つとなった。
あの思い出があったから、先生を続けてこれたよ。先生の楽しさを教えてくれた。いつも先生に幸せを分けてくれた。本当にありがとう。
次の年、蓋を開けたら、また同じパワハラ先生と同じ学年だった。クラスは楽しかったが、同じ学年団としては長かった1年を、また耐えなければならない。しかも今度は、その先生にごますりをする、金魚の糞までいた。
教室で仕事をしていると、パワハラ先生がいきなり無言でドアをバーンと開け、「〇〇出したん?」と、かなりキツめのトーンで聞いてきた。「出しました…」と答えると、また無言でドアをバーンと閉められた。仕事はできるのかもしれないけど、こんな人には絶対なりたくないと思った。
3学期、とうとう体調を崩してしまった。最後の3日間ほどだったか。去年に同じく、クラスの子には私なりに愛情をたっぷり注いで1年間やってきていたので、去年とは別のクラスソングを最後に歌い、また涙と笑顔でお別れをした。
そして、次の年度から3ヶ月ほど、病休を取ることとなった。
休んでいる間、子どもや先生に会ったときにどうしたら良いかもわからないので、当時付き合っていた彼氏(後に夫となる)が、他県に異動するタイミングで、同棲を始めた。
歴代彼氏で1番性格が悪かった。しかし、歴代彼氏で1番顔はかっこよかった。人は成長するし、自分も苦手なことたくさんあるから、お互い様。性格なんて後から成長するから問題ないやろ。と、高を括っていた。そして付き合って2年で結婚した。
後に生まれた息子に出会えたから後悔はしていないが、付き合って間もなくして、モラハラに悩んでいた。それでも、上司のパワハラによってうつ状態の私と別れずに一緒にいてくれたので、当時は支えてくれたと思っていた。その恩と、結婚したい年齢だったということもあり、結婚した。
今思うと、常々不機嫌で、建設的な話し合いができず、けなすようなことばかりを言われたり、出先で置き去りにされたり、決して大切にされているとは言い難い生活だった。しかし、感覚が麻痺していた。それでも、息子に出会わせてくれたことには感謝している。
そして今は、別居し、離婚調停をしている。夫のSNSのアカウントを密かに知っている私は、別居前からときどきチェックしていた。面会交流について揉めているときには「死ね」「殺すぞ」「お前なんかいなくてもなんとも思わない」的なことが書かれていた。怖かった。私は殺されるかもしれない。
息子の送迎中に、面会日でもないのに家の敷地内で鉢合わせたこともあった。その後管理人さんに確認すると、毎日来ている時期もあったことが発覚した。殺すぞと言っているような人が、毎日のように近くに来ていたことに、驚愕した。
警察にも相談した。しかし、離婚は済んでいないから、法的に何かを犯している訳ではないのでと、取り合ってもらえなかった。
代理人をつけず、自分で申し立てし調停は不調に終わった。上記の通り、夫の言動はさらにエスカレートしていき、限界が来た。
その頃、4校目の学校で仕事は順調だった。パワハラ先生はいない。職場の人の風通しがいい。職員室で気さくに話ができる。職場の人と飲み会にもたくさんいって、よく笑った。アホみたいな飲み方をして、帰りに公園で寝転がって空を見上げたり、粗相したり…もちろん二日酔いでげんなりしたが、その時間は青春だった。
仕事では、落ちこぼれの自分が、ここでは誰かの役に立つようにと、自分にできることをやった。要領は相変わらずよくないけど、子どもと真摯に向き合うことだけは、うまくいかないことがありながらも、続けてきた。
支援の担任もたくさんした。私が来た時に2年生だった子が、今ではもう中学生だ。できないことがあると床に寝そべっていたあの子が、〇〇ちゃんは〜はできるよ!はい!と、できたらシールを貼るのを目標に、いろんなことを取り組んできた。数を集合とは捉えずに一つずつ数えていた子が、毎日ブロックを使って、数の感覚を身につけながら、少しずつ、今より少し難しいことにらチャレンジしていくうちに、6年生では分数の割り算もできるようになっていた。できないと決めつけずに、これだったらできそう、ってことを繰り返しやり続けた。その積み重ねは、その子の頑張りでしかない。
その子はいつも私に笑顔をくれた。生きるパワーをもらっていた。産育休中、夫のモラハラに苦しんだときも、その子の笑顔を思い出して頑張っていた。またあの、にこにこ笑顔に会いたいと思って、産後1年で復帰したくらい、その子の笑顔に私は何度も励まされていた。私が夫のことで辛いときにも、何か察知していたのか、「〇〇先生、大丈夫?」と言ったり、笑してくれたね。私を生かしてくれてありがとう。ずっとずっと応援してるし、大好きだよ。たくさん笑顔をくれて、たくさん幸せをくれて、ありがとう。
離婚調停は次で7回目くらいかな。弁護士見つけるのも大変やったのに、モラハラに強いから依頼したのに、期日に必要な書類を弁護士が間に合わせず、こちらがいろいろ突っ込むまで謝罪がないどころか逆ギレ。話をすり替えられる。それで最終的には、委任契約終了するのがよいのでは、と。夫のモラハラでうつになり、メニエールになり、発声障害になり、いろいろな病気を抱えながら、夫のモラハラになんとか耐えながら、仕事、育児、家事をやってきた。とっくに超えている限界に限界を重ねて、体がついに動かなくなったから、何軒もあたって、モラハラ離婚を得意分野とするあなたに依頼したんですよ。あなたの提出ミスで2時間ほどある調停が15分で終わり、検討事項について何も話し合いができずに終わり、さすがに謝罪してきましたよね。人間だから、私だって完璧じゃないから、ちょっとしたミスはあるものだと思って、目を瞑ってきたつもりです。でも、次の調停に必要な書類がまた間に合わないと。確認する時間は十分にあったのに、病院のせいにして、謝罪なし。話のすり替え。しまいには、契約終了の提案。一回一回の調停や調査官聞き取りをなんやと思ってるんよ。こっちは人生かけとるんよ。それに30分遅刻しても、私から聞かないと説明なし。必要って前回言われた資料できてないけど大丈夫か聞いても、次回はいらないですって言ったのに、当日調停員に、書類は?と聞かれると「私の準備不足で…次回提出する予定です。申し訳ありません。」と。私には謝罪なく、調査官に謝って終わり。そんなことの繰り返しで離婚調停が本来よりさらに伸びているのに、他の人に頼めと。弁護士って何のためにいるの?モラハラされた人が負けなの。モラハラしたもん勝ちなん?
いじめられてる子をなんとかケアしよう、カウンセリングを受けさせよう、逃げる場を与えよう、でも逃げるのってリスクが大きい。学校にもいけなくなって、損ばかりする。DVもそうだけど、どうしてなんだろう。どうして被害者側に逃げさせるんだろう。病んでたり迷惑だったり恥ずかしくて問題があるのは、いじめてる方なのに。
久能 整
仕事復帰してるイメージできない。
何をしていけばいいのかわからない。
教師やめたら私に何が残るんかわからん。
結局いじめた方が得する世の中かよ。
そんな世の中を変えたいと思った。
けど今、そんな力がひゅっと、なくなった。
死んだ方がマシなのかもしれない。
友だちへ
いつも、うちの話を聞いてくれてありがとう。話長いのに、最後まで聞いてくれたね。LINEしてくれたね。家出したときは泊めてくれたね。またいつでも吐き出してやって言ってくれたね。みんながいなかったら、うちはもっと早くに死んでたと思う。特に、どんなことも話してきた友だち。うちのあかんところもひっくるめて、好きでいてくれた。あかんことはあかんって言うてくれた。一緒に腹抱えてほんまにいーーーっぱい笑った。みんなといると、やなこと忘れて笑えたし、泣きたいときは泣けたし、ハッピーのサイクルで高め合えた。いつもそばで笑わせてくれてありがとう。幸せを教えてくれてありがとう。うちがうちのこと好きでいられる自分でいさせてくれてありがとう。大好き。
おかあへ
昔から父親の悪口を聞かされて育った私は、母のことは正直好きではなかった。けど、裏で家庭を支えてくれていたのは母だったことを大人になってから知ったね。大変だったね。それでも、離婚せずに私や兄のために家庭を支えてきてくれたね。今は昔では考えられないような、自分の好きなことに目覚めて、たくさんLIVEに行ってますね。大学卒業するまでの22年間、とても長かったと思いますが、好き嫌いの多い私が、「今日のチキンカツめっちゃ美味しい」というと、チキンカツが週に3回くらい弁当に入ってたり、密かに生姜を取り入れた料理を作って健康管理してくれていたり、試合の日にはうなぎの入ったおにぎりを作ってくれたり、おこわのおにぎりも美味しかったの覚えてるよ。離婚早くしたかったのに、私が編入したからさらに長く引き伸ばしてしまってごめんね。今この立場になったから、そのときの辛さが今になってやっとわかったよ。あのときはわかってあげられなくてごめん。いつも遠回しでわかりにくいけど、私のことを想ってくれてたね。反抗期には半年以上無視もして、辛い思いもさせてごめん。だって、いつも話最後まで聞いてないし、話噛み合わへんねんもん。笑
でも、絶対に私服で履かないであろう、白いハイヒールを、結婚式のときにうちが用意し忘れてたからか、「自分用に買ったけど履かへんからあげるわ。」と、こだわりが強くて、そのままプレゼントされても文句を言ってしまいそうな私に、「自分のために買った。」とたぶん嘘をついて、渡してくれたね。ゆずやスピッツ、ミスチルとかのLIVEでおそらく私を釣って笑、一緒にいる時間を作ってくれたね。そういう、回りくどい、不器用なやり方でやけど、私に愛情を注いでくれてたよね。わかってたけど、素直になれなくてごめん。不器用な形でも、いつも愛を注いでくれてたね。この場を借りて、いつもありがとう。うちを産んでくれてありがとう。おとうと出会ってくれてありがとう。おかあのおかげで、この世に生まれることができて、この世の楽しいことに、大切な人たちにたくさんで会うことができました。自分も不器用でいつもは伝えられへんけど、すごく感謝しています。ありがとう。
おとうへ
昔から父親っ子だった私。小さい頃は高い高いとか、体をブンブン振り回すような激しめの遊びで私を笑わせてくれたね。おとうからもらったワンくんのぬいぐるみは、一生の宝物です。ワンくんのしっぽをパタパタさせて、私を笑かしてくれたね。そんな父が大好きだった。
うちが大学を卒業して、おかあと離婚して、何してんねんって思ったよ。しっかりしてよ、って思ったよ。おかあのパートナーとしては、いいパートナーじゃなかったのかもしれんけど、うちのおとうであることに変わりありません。いまだに、自分の話ばかりして、「自分は話すの上手いで!」と調子に乗ってるときがありますが、ほんまに話が上手い人は自分でそんなこと言わないので、ほんまに気をつけてね。笑 みんな退屈ーと思って聞いてるかもしれないから、話すよりも、いっぱい相手の話を聞いてあげてね。質問してあげてね。去り際はいつもサッと帰るおとう。もう少し、同じペースで歩いてよ、って思うことも昔からあったけど、夜急に怖くなって眠れなかったときに、手を繋いで一緒に寝てくれたこと、忘れてないよ。小さい頃、おとうが大好きで、仕事に行く前におでこやほっぺにチューしてたことも、今では恥ずかしいけど、実は覚えてるよ。おとうの昔の事務所でポカリを飲んだことも、おとう行きつけのご飯屋さんに連れて行ってくれて鯖の煮付けみたいのん食べたことも、覚えてるよ。私がすごい顔で自転車に乗って風を切って走ってる写真を仕事場に飾ってくれてたことも覚えてるよ。手先が器用なおとう。絵が上手なおとう。大人になってから嫌な部分も見えちゃったけど、恥ずかしいから一回しか言われへんけど、やっぱりおとうのこと大好きやで。ありがとう。
兄へ
昔からずっとイライラしてて、怒りっぽくて、泣き虫で、学校でからかわれて帰ってきてまた怒って。帰ったらずっとゲームしてたね。真面目やから宿題とかはちゃんとやってたし、毎日学校にも行ってたね。パソコン使うの上手いから、昔はコンクールで賞を取ってたね。お絵描きの教室で、空調と空調の間をよじ登ってそれを壊してしまったとき、何やっとんねんって妹ながらに思ったよ。うちから見たら、ずっとイライラして毎日過ごしているのは生きづらそうやった。あと、うちの息子には挨拶くらいしてくれてもいいやん。笑 なかなか辛かったわ。けど、うちの結婚式で、旦那に「妹をよろしくお願いします。」って、言ってくれたこと、忘れないよ。最近病気してたけど、うちに心配をかけまいと、おかあに口止めしてたみたいやね。一応きょうだいやねんから、頼って欲しかったけど、自分で頑張ってたね。食事が偏りすぎなのが昔からずっと気になってるけど、たぶん今回の病気できっと身をもってわかったと思うから、これからはもう少し体に気を使って過ごしてね。あと、おかあの家出ないなら、おかあのことよろしく頼むで?本音としては、ちゃんとひとり暮らしして自立してほしいけどね。余計なお世話かもしれへんけど、ずっというの我慢してたから最後くらい言わせて。笑 たぶん、人よりも生きにくい性格で自分でも困ってるんか、気づいてないのかわからんけど、笑ったらもっと楽しいよ。もうええ歳やねんからそろそろ気づいてよ。笑
イライラするよりも、笑って過ごせる時間が今より少しでも増えることを願ってます。
息子へ
生まれてきてくれてありがとう。かあちゃんはあなたに出会えて幸せでした。あなたと手を繋ぐときも、あなたとギューするときも、あなたと喧嘩するときも、怒った顔も、笑った顔も、泣いてる顔も、全部全部大好きです。かあちゃんが仕事やとうちゃんのことで落ち込んでるとき、顔には出してないつもりやったのに、涙も流してないのに、「かあちゃん泣いてるの?」と気づいてたね。仕事で疲れきってお迎えにいったときには、飛び切りの笑顔で迎えてくれて、しかもひと笑い笑かしてくれて、本当によく見ているなぁと感心ばかりしてました。かあちゃんととうちゃんと一緒に暮らしたかったよね。3人で一緒に暮らせなくてごめんね。けど、あなたと2人で暮らした時間はとても穏やかで、母ちゃんたくさんたくさん笑いました。スマホたくさん触っちゃうこともあってごめんね。「かあちゃん」って1日に100回くらいは言ってたんちゃうかな?って思うくらい、かあちゃんのことを呼んでくれたね。かあちゃんがいて、あなたがいる。それだけで、幸せでした。いつもそばにいてくれてありがとう。今日も明日も明後日も、ずっとずーーっと大好きよ。かあちゃんが辛いとき、いぬの折り紙折ってくれてありがとう。紙飛行機くれてありがとう。お菓子をわけてくれてありがとう。いつもたくさん笑顔をくれてありがとう。この世に生まれてきてくれてありがとう。あなたがいたから、ここまで生きることができました。大好き。大好きって言葉じゃ言い表せないくらい大好き。愛してるよ。
やっぱりあなたとこれからも生きていきたいな、って今書きながら思ったよ。あなたの寝顔が見れない日なんて考えられないよ。かあちゃんやっぱりだめだめやね。涙止まらんわ。生きる意味をくれてありがとう。