日々鍛錬し、いつ来るともわからぬ機会に備えよ。地方のコピーライターの35年①
珍しくNHKの朝ドラを続けて観ている。その中に出てくる大部屋俳優・虚無蔵のキメ台詞「日々鍛錬し、いつ来るともわからぬ機会に備えよ。」
なんだ、これ、私のこれまでの仕事人生じゃないか・・・。
そうね~、私は大部屋俳優だったかも~。
私はある地方都市でコピーライターをしている。もう35年を過ぎた。
名刺の肩書は「コピーライター」で、ビジネスに関わる商業コピーを書くことをメインにしているが、地方都市でそれだけにこだわっていては、やっていけない。時代と共に印刷物だけでなくメディアの選択肢が増え、それと共に仕事の境界線が消え、40代に入ったぐらいから「文章を書く仕事」がいろいろと依頼されるようになってきた。
期せずして、これからの時代を象徴するかのような働き方を35年前からしているわけだ。
思い描いていた理想通りとはいかなかったけど、その時々に出会いがあったり、助けられたりして、面白い仕事人生だったなと思う。
<20代の仕事 親が望む仕事には就かなかった>
「長女だから家を出てはダメ。地元で教師をするのが一番安定している。」という典型的な保守派の親の言葉に対抗できず、地元の国立大学を卒業し、小学校の教師になった。
私が20代のころは、糸井重里や林真理子がメディアに出はじめた時代。それにはあまり興味はなかったが、自分のやりたいことを調べていったら、それが「コピーライター」という仕事であることが分かった。仲畑貴志さんのコピーが好きだったなあ。教師時代もコピーの仕事をしたいという思いは無くなっていなかったから、2年間、非常勤講師として勤めて、辞めた。
しかし、なんせ35年前の地方都市である。仲畑さんが手掛けるような広告の仕事はなく、「広告」といえば看板広告か新聞折り込みのチラシだと思う人がほとんど。でも、面白い仕事がぽつぽつ出始めていた黎明期だった。
大学に在学中から、卒業後になんとか家を出てコピーライティングの仕事に就けないかリサーチしてみたが、力尽きた。それに何より、親が反対していたから資金がない!世間知らずの高校生にとっては致命傷だ。それに、職探し、家探し、新幹線や飛行機のチケットの購入etc、すべてがネット上で完結する今の時代と違って、当時のあらゆることがなんと不便だったことか。
今就活している若い人は当たり前だと思ってるだろうけど、すごいことなんだよ。
私は親の反対を押し切る勇気もお金もなく、家を出ることは半ば諦め、非常勤講師時代に宣伝会議の通信コースを受け、基礎(概要)を学んだ。2年で教職を退いた後、それらしき仕事がありそうな、地元の広告代理店や制作会社、テレビ局の広告制作局などに片っ端から飛び込みで使ってほしいと訪ねていった。
その結果就職した広告代理店に4年間勤め、その間に、大阪でコピーライターをしていた先輩に仕事のノウハウを教えてもらった。1980年代当時、私が働く地方にコピーライターは数えるほどしかいなかったと思う。
代理店時代はラジオCMの原稿とか、デザインの切り貼り(パソコンはなかったからアナログなデザイン)とか、なんでも手伝った。やっとFAXが使われ始めたころだから、クライアントには原稿やデザインを持参して確認してもらっていた。このいろいろな経験が意外と後々まで役立っている。
そういえば、代理店時代の最後の方で、夫と知り合っている。
私の仕事が「コピーライター」と聞いて、コピー機を販売する人かと思ったらしい。全く別の世界の者同士だったのに、なぜ結婚したのか。
同業者と結婚すれば、仕事以外の時も仕事の話になりそうで、疲れるかもと思ったけど、仕事の話が通じないのはもっと疲れるということに後から気づく。時すでに遅し。
4年も付き合ったのに夫が宇宙人だということには結局気づかず、フリーになって2年後、30才になる直前に結婚した。
<30代~の仕事 子育てや家事で、仕事の幅が広がった>
結婚しても仕事は続けていたけど、2年目で子どもができ、夫の仕事の都合で離島に転勤になった。
娘が1才~3才だった3年間の離島暮らしは、純粋によかった、楽しかった。子どもも小さいし、知らない土地だし、夫も私もとにかく毎日一生懸命だったから、細かいことを気にする暇がなかったのかも。
子育てはできるだけ自分の手でしたかったし、当時、島にいたのではコピーの仕事はできない。それがかえってよかったのかもしれない。
今なら島暮らしのブログでも書いてるかな。
離島には3年間暮らし、娘が4歳になった時に帰って来た。最初に戻った場所が工業地帯の近くだったのもあって、まず感じたのが空気の悪さ。鼻や目がチカチカして、びっくりした。
娘が小学3年生になった頃からフリーランスで本格的に仕事復帰。仕事仲間とはずっとつながっていたから、仕事も紹介してくれて、ありがたかった。
復帰してからは、ページものの大学案内や企業案内、記念誌、観光パンフレットなど、まだ印刷物が多かったが、単価の大きな仕事が増えていった。子育てや主婦としての経験が生かせる内容の仕事も依頼されるようになっていった。
しかし、なんといっても20年~30年前の地方都市である。仕事の単価は高くても仕事量が圧倒的に少ない。おまけに自分の会社の企業案内なのに、「任せるわ。」とヒアリングもそこそこの低レベルな中小企業も多かった。
クライアントの意向を魅力的に表現する仕事だから、自分の好きに書けるわけではなく、「こんなダサいの、私の仕事だとは言いたくない!」と思うことも。教職を辞めてまで就いた仕事だけど、本当にこれでよかったのだろうかと落ち込むこともしばしばだった。
(つづく)