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映えとエモさと現実のはざまに

私は、映えとエモさと現実のはざまに浮遊する存在だ。ほんとうの私はどこかに隠れてしまった。


たとえば、「コーヒー」を表現してみよう。

ほんとうはブラックコーヒー派の私。しかし、映えを求めると、「カフェラテ」になる。写真も文字も同じ。映えるのは「ブラックコーヒー」ではない。間違いなく、「カフェラテ」だ。

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いつも、オフィスかチェーン経営のカフェでコーヒーを飲む私。しかし、エモさを求めるのなら、写真も文字も「喫茶店」にならざるを得ない。さらに「珈琲」がふさわしいだろう。

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現実は、「コメダ珈琲」「ドトール」「カフェ・ド・クリエ」のどこかでブラックコーヒーを飲んでいるのだけれど…。

ちなみに、スタバには一人で行くことはあまりない。フリーランスがみんなスタバ好きだと思ったら大間違いなのである。


「お洒落なカフェでカフェラテを飲みながらお仕事」も「レトロな喫茶店で珈琲を飲みながら読書」も、大きな嘘ではないけれど、本当でもない。


こうして、インターネットで人は少しの嘘をつく。

インターネットにも書籍にも、現実はないと思う。映えとエモさと現実のはざまに浮遊する…それは私だけではなく、今を生きる人の本性に見える。つかみどころがない。つかまりたくもない。

でも、顔がチラ見えするアイコンに変えてみたり、「本音を見せてもいいよね…」とつぶやいてみたりするのは、自分でも見失っている”ほんとうの自分”を、誰かにつかまえてほしいんじゃないのかな…。


なんてね☆