3.11のあの日
昨日は3月11日。
最近は、スマホが勝手に「昨年の今日は何してた」みたいな情報を教えてくれる。
それはたまにお節介だと思うこともあるけれど、必要な時もあると思う。
「この時の感情を忘れない」そう思った3月11日ももう9年前のこと。
人はやっぱり時間が経つと忘れていく生き物で、当事者でなければ必ず風化していってしまう。当事者であっても、少しずつ少しずつ消えていく、と思う。
だからそんな時は、「昨年の今日は」「一昨年の今日は」「2011年の今日は」が必要。
僕はあの日、ホワイトデーのギフトを買うため渋谷パルコにいた。
当時の渋谷パルコは実はだいぶ古い建物で、かなり揺れたのを覚えてる。
(その後、耐震基準の問題もあったのか、今はやっと再建された。)
かなり揺れたものの、渋谷の町に大きな被害は見えなかった。情報がなかった。だから、そこまで大変なことになっているなんて知らなかった。きっと電車もすぐ復旧するだろうと思ってた。
でも電車は夜になっても動かず、今日は再開見込みがないと伝えられ、初めてコトの大きさに気づいた。
僕も含め渋谷にとり残された人たちは、みんな歩き出して、家に帰ろうと必死だった。その時はまだ結婚もしていないし、子供もいなかった。それでも、何故か必死に家に帰らないとと思っていた。
ああいう状況になると人は、とにかく家に帰らないとという不思議な感情にかられる。
結局歩いて家に帰ろうとしたものの、帰れたのはせいぜい上野までだった。
上野公園にある施設で一夜を過ごした。
そこで初めてTVを見て、震源が東北だったこと、津波が来たことを知った。
その映像を見た時の衝撃は、今も忘れない。
みんな一様に黙って、ただただTVのニュース映像を眺めていた。
その瞬間は、何を言っても、どんな感想を言っても、言葉が陳腐にしか感じない。そんな気分だった。
そしてこの感情は、その後もう一度訪れる。
それは1年後、石巻を訪れた時だった。
僕は写真家として、震災を感じて記録しなければと思って現地へ行ったものの、その信念は一瞬で崩れ落ちる。
TVで見るのとは違う。
痛々しい街。
カメラを持った僕へ対する人々の目線。
色んなものが、一年が経ってもまだ残っていた。
その時もやっぱりまた、何も話せなかった。
話すことが出来ず、その言葉を写真に封じ込めた。
これが僕の311の記憶。
本当はもっともっとたくさんの記憶があるけれど、一番忘れないようにとっている記憶。