終戦後、帰国せずにインドネシア独立のために戦うことを選んだラフマット小野(小野盛)~日本が世界に誇るJミリタリー・教科書が教えない〝戦場〟の道徳(9)
第9回は、太平洋戦争が終わっても日本に帰国せずにインドネシア独立のために戦うことを選んだ残留日本兵・ラフマット小野(小野盛)です。
◇インドネシア残留日本兵とは?
◇エピソード 終戦後、帰国せずにインドネシア独立のために戦うことを選んだラフマット小野(小野盛)
◇インドネシア残留日本兵の歴史授業
◇参考文献等
(1)インドネシア残留日本兵とは?
東南アジアの国々はどこも親日的ですが、じつはインドネシアも非常に親日度の高い国です。
やや古い調査ですが2006年に行われたアメリカのメリーランド大学とイギリスBBC放送との共同世論調査によれば、日本肯定派が最も多かったのはインドネシアで、インドネシア人の85%が日本は世界に好影響を与えていると答えているそうです(桜の花出版編集部『インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実』桜の花出版 3~4ページ)。
では、なぜインドネシアの人々は親日的な人が多いのでしょうか。
インドネシア企業と日本企業のビジネス支援を手掛けている茂木正朗さんは「日本からのODAが最大である」「インドネシアにとって日本は最大の輸出相手国である」「同じアジアの経済大国として尊敬されている」「日本の技術力がインドネシア工業製品を牽引している」などの理由を上げています。経済的な結びつきが多いのですが、茂木さんはもう一つ意外な理由を上げています。
「第2次世界大戦後、残留日本兵がインドネシア独立のためにインドネシア人と一緒にオランダ軍と戦ってくれた」(茂木正朗『親日指数世界一の国!インドネシアが選ばれるのには理由がある』日刊工業新聞社 118ページ)
なぜ戦後に? 残留日本兵とは?
日本・インドネシア友好年実行委員会が刊行した『日本・インドネシア関係五十年史』(監修・國廣道彦 執筆・永井重信 編集協力・外務省南部アジア部)によれば、インドネシアの独立戦争にインドネシア軍として参加した元日本兵が900名ほどいたと言います。これが残留日本兵です。なお、資料によっては元日本兵は2000名とされているものもあります(中村粲編著『インドネシア紀行』展転社106六ページ)。
彼らの中にはこの戦いで武勲を立ててインドネシア政府から最高の勲章を授与されたり、英雄墓地に埋葬された人もいます。しかし、約500名が戦死、行方不明となっています。生き残った人たちは日本に帰国した人もいますが、インドネシア国籍を取得して永住した人もいます。
このように、日本人はインドネシアの独立と深く関わっているのです。
マレーシア人のマストゥラさん(ご祖母がインドネシアの方だそうです)がYouTube『マストゥラちゃんねる』でインドネシア独立戦争について語っています。ぜひご視聴下さい。同テーマの動画がいくつかありますが「日本兵の子孫に聞いた!インドネシア独立に人生を捧げた!本当のアジア解放の話」がわかりやすいと思います。
(2)エピソード 終戦後、帰国せずにインドネシア独立のために戦うことを選んだラフマット小野(小野盛)
1941年12月8日。日本はアメリカ領のハワイ・真珠湾とイギリス領のマレー半島を攻撃して太平洋戦争が始まりました。日本軍は、さらにオランダの植民地になっていたインドネシアにあるオランダとアメリカのパレンバン精油所をパラシュート部隊で奪取してからわずか1週間でオランダ軍を降伏させました。
その後、日本は現地のインドネシア語を公用語にしました。これによって、オランダに植民地とされていたインドネシアの人びとは国民としてまとまることの重要性に気づいたと言われています。
さらに、日本軍は「ムルデカ(インドネシア語で独立の意味 )」を期待するインドネシア人のためにインドネシア人だけの軍隊である防衛義勇軍を編成しました。そして、戦い方や武器の使い方を教え、訓練のための先生役をしました。この防衛義勇軍が独立後のインドネシア軍の基礎となったのです。
しかしそれから4年後、日本はアメリカとの戦争に敗れました。戦争に負けたことで日本軍の兵隊たちはアメリカを含む連合国軍の支配下に入り、命令があるまで自分たちで武器を管理することになりました。一度は日本に降伏したオランダ軍ですが、再びこのインドネシアに戻って来て再植民地化するのは目に見えています。
そんな中、インドネシア人たちは日本兵にこんな相談を持ちかけてきました。
「私たちはインドネシア独立のために、オランダ軍と戦う決意です。しかし、私たちには戦うための武器と実際の戦闘経験がまったくありません。日本軍の武器を譲ってください。そして、私たちと一緒にオランダ軍と戦ってください。どう戦えばよいか作戦を教えてほしいのです」
しかし、そんなことをすれば日本への帰国はかなわなくなってしまいます。懐かしい家族や友だちに会うことができなくなるのです。しかしこの相談を拒めば、仲よくなったインドネシアの人たちを悲しませることになってしまいます。当時の日本兵はみんな悩んだことでしょう。
「これまでインドネシア独立の手伝いをしてきたのに、今さらオランダが有利になるようなことはできない」
悩んだ末に、武器をインドネシア人に譲った日本軍の部隊がたくさんありました。そして、インドネシアの地に残って「ムルデカ」のためにインドネシア人とともに戦った元日本兵がたくさんいたのです。こうした人たちを「残留日本兵」と呼ぶことがあります。
小野盛(さかり)さんも独立のためにインドネシア人と一緒に戦った残留日本兵の一人です。小野さんのような残留日本兵は約2000人いたと言われています。
小野さんは1919(大正8)年に北海道・富良野の農家に生まれ、20才の時に軍隊に入隊しました。その後、南方方面を志願してインドネシアに出征し、現地の警備を務めました。危険な任務でしたがインドネシア人とのふれあいもあり、インドネシア人に親近感を覚えていきました。
小野さんはインドネシアに残った理由についてこう言っています。
「私たちは、日本がきっとインドネシアを独立させると約束していました。でも、日本は戦争に負けてしまい約束が果たせなかった。それどころか、目の前でオランダ軍にインドネシアの国土が爆撃されている。それでも、インドネシアの青年は勇敢に戦っている。私は憤りを感じました。それでインドネシアに残ることにしたのです。日本が負けてできなかったインドネシア独立のために、小さな力だけれど自分が協力しよう、というわけで戦ったのです」
小野さんは日本にいる両親に心配をかけたくないと考えて、写真・髪の毛・切った爪を筒に入れて日本へ帰国する友人に渡し「これを持っていって自分は死んだと伝えてくれ」と頼みました。
オランダ軍との戦闘が始りました。ある日、山の中の家にたどり着くと村の人たちは小野さんたち独立軍を歓迎して夕食を準備してくれました。村人たちはようやく手に入れた自分たちの食べる分さえも小野さんたちにくれたのです。
「早く独立を完成させてこの人たちに少しでも楽な生活をさせてあげたい」
こう考えた小野さんは各地で重要な戦いをインドネシア人に指導して、インドネシアの独立に貢献しました。しかし、小野さんは戦闘中に小型の大砲が暴発するという事故に巻き込まれて左腕を失ってしまいます。
こうして約4年間の独立戦争をへてついにインドネシアの人びとは本当の独立を手にしたのです。独立戦争後、 小野さんはラフマット小野と名乗り、日本には帰らずにインドネシア人の女性と結婚してインドネシア人として幸せな家庭を築きました。
*「特別の教科 道徳」の内容項目「A 主として自分自身に関すること」の「希望と勇気、努力と強い意志」又は「C 主として集団や社会との関わりに関すること」の「国際理解、国際親善」に関連します。
(3)インドネシア残留日本兵の歴史授業
上記で紹介したのは自作の道徳教材ですが、かつて歴史の授業(小学校6年)でインドネシア残留日本兵を取り上げたことがあります(安達弘「インドネシアの友人に武器を渡すべきか―インドネシア独立を前にした日本兵になって考えてみる」『あなたならどうする?歴史人物になってみる日本史』高木書房)。
一部のみですがご紹介します。
インドネシア防衛義勇軍のインドネシア人が日本兵のところへ来て、次のように相談されたら・・・という設定でこんな課題を出しました。
私たちはインドネシア独立のために、オランダ軍と戦う決意です。しかし、私たちには戦うための武器と実際の戦闘経験がほとんどありません。そこで二つのお願いです。①日本軍の武器を譲ってください。②私たちと一緒にオランダ軍と戦ってください。どう戦えばよいか作戦を教えてほしいのです―さてあなたが日本の兵隊さんだったらどうしますか?
子どもたちは悩みに悩んでさまざまな意見を出してくれました。どんな意見が出てきたか?以下の私のブログを覗いてみてください(興味を持った方は前掲の拙著をお読みいただければ幸いです)
上記の「昭和(戦後)」カテゴリー内の「アジア独立」に授業記録を掲載しています。
◇参考文献等
*林英一『残留日本兵の真実 インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録』(作品社)
*林英一編著『南方軍政関係史料42インドネシア残留日本兵の社会史―ラフマット・小野盛自叙伝』(龍渓書舎)
*桜の花出版編集部編『インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実』(桜の花出版)
*中村粲『インドネシア紀行』(展転社)
*茂木正朗『親日指数世界一の国!インドネシアが選ばれるのには理由がある』(日刊工業新聞社)
*監修:國廣道彦 執筆:永井重信 編集協力:外務省南部アジア部『日本・インドネシア関係50年史』(日本・インドネシア友好年実行委員会)