なぜ、教室で「慰安婦」を教えてはいけないのか(23)
ー児童・生徒に慰安婦を教えるのがダメな理由 その5
7 小浜逸郎「売春(買春)は悪か」を読む②―嫌悪感の由来
では、①の「そもそも売買春行為に伴う漠然たる道徳的嫌悪感、汚辱感は、何に由来するのか」についての小浜氏の見解を見ていく。
氏は、売春に対する蔑視・嫌悪は「性行為という最もプライベートな営みを商売の対象とする」ことに対して向けられていると言う。
ゆえに、蔑視・嫌悪は次の2つ及びその2つの重なりが対象である。
A:性行為
B:商取引
まずBから見てみよう。
じつは商取引を卑しいと見なす観念は古くからある。ユダヤ人と金貸し業、士農工商などの例を考えてみればわかりやすい。つまり、汗水たらして生産にはげむ姿に比べて取引だけで儲ける姿に嫌悪感を感じるというものの見方である。
だが、貨幣経済社会において商取引は必要不可欠だ。商取引を忌み嫌うことなどできない。そこで、ある「一括り」(ここではセックスワーカー)を自分とは無縁なものとして意識から遠のけることで、自分は差別感など持っていない存在であろうとする、こういう構造になっている―これが小浜氏の説明である。
次はAを見てみる。
小浜氏は「性に対する私たちの意識は、極端に分裂した構造」になっていると言う。
「性愛の観念は、性的な結合を不可欠の基盤とするにもかかわらず、「愛」として問題にされる限りは、素晴らしい人生の理想であるかのごとく雄弁に語り継がれ、一方、その行為の部分だけを取り出せば、みだりに口にすべきでない、恥ずかしい「秘め事」である」(p149)
人間はこのような分裂した「極端な境界線」をなぜ引かなければならなかったのか。小浜氏次のように説明する。
「それは「性」が、当事者だけを日常から別世界へ連れて行く力を持っていると感じられたからであり、そのことが、日常性を根底のところで規定している共同的な生産活動の秩序感覚を脅かすものだったからである」(p151)
下世話な表現で言えば、セックスはとても気持ちいい、そして楽しい。でも、そんな気持ちいい・楽しいことをいつもあっちこっちでやっていて、それがいつも公開されていたら、みんな働く気を無くすよね、ということだろうか。たぶん、集団内に羨望がうずまき、嫉妬の嵐となり、三角関係どころか四角・五角・・・関係で人間関係はぐちゃぐちゃである。
だが、セックスは生殖という神秘的な要素を持ち、私たちの共同体の存続には欠かせない特別な行為でもある。
「むやみに飛び出しては困る抑圧されなくてはならないものではあるが、同時にきわめて大切な、時には神聖視すべきものという、矛盾した観念がかぶせられることになったのである」(p152)
このように売買春への「不道徳感・汚辱感」には非常に複雑な人間の心理・精紳がうごめいている。Aの性行為にもBの商取引にも矛盾した見方・考え方が対立しているが、人間はそれを長い歴史の中でなんとか両立させてきたのではないか、と想像できる。
最後に小浜氏は次のように売春行為への「不道徳感・汚辱感」の由来をまとめている。
「私たちは、まことに身勝手にも、その欲望の処理の役割を彼女たちに押しつけ、しかも同時に、彼女たちをその全存在ぐるみ、自分たちの中の「精紳」や「理性」や「道徳感情」にとっての否定的な部分として「下半身的なもの」の象徴と見なすのである。性への否定感情と金銭への否定感情が折り重なって彼女たちにかぶせられる」(p153)
非常に長い長い人間の歴史の中で、こうした「由来」が作られてきたのだろう。そう考えると、売買春への特別な感じが簡単には拭えない理由がわかるような気がする。
8 小浜逸郎「売春(買春)は悪か」を読む③―なくならない理由
小浜氏は、②の「人はなぜ売春(買春)をするのか」という問いに答えるのは難しいと言う。
この問いに答えるのは難しいと断った上で、氏はまず、この問いは「買春する悪い男がいるから」という男のみを対象にした道徳的糾弾では解決しないと言う。そもそも、売春は「一般的な男女の性愛関係のあり方を、金銭を仲立ちとした経済の場にそのまま引き移したもの」であって、男も女も性の世界への「過剰な関心」という点においては変わりはない。それは「人肌恋しさ」のようなものだが、男と女ではその表し方に違いがあるのではないか、と言うのが小浜氏の見解である。
売春は世界最古の職業と言われるが、古今東西、売春のない世界はないといっても過言ではない。とすれば「男の欲望」がまずはあったとしても女性が「主体的に対応すること」がなければこうはならないはずである。
ちなみに女性がセックスワークに「主体的に対応」していると感じられる例をいくつか紹介する。以下の例は売春防止法が施行されている日本では犯罪になる行為もあると思われるし、最後の例は児童買春にも関わる危険な例だと言える(ここではその行為に対しての善悪の判断はしない)。
「サービス後に心から感謝されることも多いし、喜んでる客をみて私もうれしかったりする。私はファッション・ヘルスで働いていたのだけれど、そのお店では「なんでもしていい」なんてことはなかった。サービス内容は決まっていたし、自分でもこういうサービスをしよう、と納得して働いていた」(滝波リサ「メンズリブの性風俗産業蔑視はいったいなにが目的なの?」『買春肯定宣言 売る売らないはワタシが決める』ポット出版 p49)
「セックスワークは経済的に追いつめられて仕方なくやっているという印象が強いかもしれませんが、中にはお金のためだけでなく、やりがいのある面白い仕事だからやっているという人たちもたくさんいるんです。たとえば私が以前在籍していたお店で、皆に励まされながらマイペースで働いているうちに対人恐怖症から来る神経症が治ったという女の子がいましたし、私の親友のFちゃんというセックスワーカーはプロモーションの仕事もしている自立した女性ですが、セックスワークにもやりがいとおもしろさを見出していて、これからもずっと続けたいと言っています。私自身、セックスワークから多くのものを学ばせてもらったし、本当にやって良かったと思っています」(「座談 性風俗と売買春」における南智子氏の発言より。『買春肯定宣言 売る売らないはワタシが決める』ポット出版 p274)
「意外に思われるかもしれないが、JKビジネスで未成年が働くことを最も恐れているのは、警察でも高校でも支援団体でもなく、派遣型リフレの店長なのだ。「JKを商品化するのはけしからん」と語る大人は多いが、実際にJKであることを商品化したがっているのは、他の誰でもない、当のJK自身である。桑田さんの元には、「十七歳なんですけど、働けますか?」というメッセージがツイッターなどで頻繁に届くという。未成年の少女はあらゆる手段を駆使して店に潜り込もうとしてくる。(中略)偽造された身分証明書を信じて採用してしまった場合でも、捕まるのは店長の方だ。派遣型リフレの店長にとって、未成年の少女はリスク以外の何物でもない」(坂爪真吾『「身体を売る彼女たち」の事情―自立と依存の性風俗』ちくま新書 p25 ※筆者注「JK」は女子高生。「派遣型リフレ」とはホテルやレンタルルームに女性を派遣してハグ・添い寝他の性的なサービス行うもの。リフレはリフレクソロジーの略。ただし児童買春の温床にもなっていると言われる)
小浜氏はこうまとめている。
「売春は、物語をできるだけ排した、見知らぬ異性間の簡便な接触の仕方である。(中略)表街道の社会道徳がどんなにそれを恥じようと、それが性的関係の原型をなぞっている限り、「悪」であるなどとはだれにも言えないのだ。しかし同時に「自由派」が望んでいるように、売春が、完全にクリーンで陰りのないイメージのものになるなどということもありえない」(p161)
以上で小浜逸郎氏の売買春論の紹介を終わるが、私はこの小浜氏の論から多くのことを学ぶことができた。とくに、なぜ売買春を教室で児童・生徒に教えてはいけないのか。そして、仮に「正しい慰安婦の姿」であっても、なぜ慰安婦を教室で教えてはいけないのかについて明確な根拠をつかむことができたと思っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?