白い傷兵と白い天使・鈴木良三「患者後送と救護班の苦心」~戦争画よ!教室でよみがえれ㉓
戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画による「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治とレオナール・フジタ
(6)白い傷兵と白い天使・鈴木良三「患者後送と救護班の苦心」ー戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究⑤
戦争画にはこんな絵もある。
従軍看護婦(ここでは「看護婦」という当時の呼称をそのまま使う)さんを「主役」にした「患者後送と救護班の苦心」である。
この絵を見ると、まずは真ん中にいる看護婦さんその美しいその立ち姿に目を奪われる。そして次に、この看護婦さんの傷兵を見る優しい顔に癒される。
この看護婦さんのすぐ後ろと左端に膝を折って看病する2人の看護婦さん、及び後方のバス型の車両の前にも1人いるのがわかる。計4人の看護婦さんの姿がこの場面を落ち着いた安心できるものにしている。もし、傷兵だけが並ぶ絵だったらもっと重苦しいものを感じていただろう。
構図を見てみよう。この絵は右奥を焦点とした遠近法で描かれているため、助けを求める傷兵たちが右奥から看護婦さんたちの方へまるで「川」の流れに乗って流れてきているかのような錯覚を覚える。そして左の「岸」には軽傷の兵隊さんたちがくつろいでいるのが見える。
色に着目すると、白と黒とカーキ色の世界だ。何よりもその白色の安心感にホッとする。傷ついた兵隊さんの寝巻の白、包帯の白。そして看護婦さんのユニフォームの優しさにあふれた天使のような白である。
当時の衛生部隊の治療システムは次の順番になっていた。
①隊包帯所(戦地の傷病者を衛生部員・補助担架兵が収容する)
②野戦病院(収容能力500名。完全な治療を目的とする)
③兵站病院(収容能力1000名。治療の補足が目的)
④陸軍病院(収容能力2000名。特殊な治療が目的)
この絵にある施設は③の兵站病院だろう。日赤救護班は戦時衛生勤務令により危険な野戦病院での勤務はできないことになっていた。
こうした戦場で傷ついた兵士の救護を担当したのは軍医・衛生兵とともに日本赤十字の看護婦さんたちだった。
1877年にその前身となる博愛社が設立し、1886年に改称して日本赤十字社となると、日赤の卒業生たち(一般の募集看護婦も含む)は日清戦争に690名、日露戦争に1866名、第1次世界大戦では英・仏・露で国外活動にも参加している。そして1939年の陸軍大臣通達により戦地勤務につく日赤救護員は軍属となることが定められた。この大東亜戦争で派遣された看護婦は内地・外地合わせて3万人以上。
「ほとんどの看護婦が召集状を受け取ったとき、日赤の看護婦であることを誇りに思い、お国の役に立てると喜んだと振り返っています。女性にとってとても名誉なことでした」(川嶋みどり他『戦争と看護婦』p72)
軍属になるということは「従軍看護婦」となることである。彼女らは「従軍」することに誇りをもっていたのである。祖国のために戦う兵隊さんたちの命を助けるという崇高な使命へのプライドー国民は誰もが彼女らを尊敬したに違いない。この絵に中の看護婦さんの姿からも、その誇りある使命感が感じられるではないか。
「戦争中に病院船で勤務していたある救護看護婦は、敵の潜水艦から魚雷攻撃を受けた時、患者たちが一斉に看護婦の方を見たので、「この人たちを助けなければ」と思い、「救護員十訓」の中の「勇敢ニシテ沈着ナルベキコト」のことばが、とっさに浮かんだといいます」(前掲p103)
屈強な兵士たちも傷つき弱れば女性である看護婦さんを頼りにしたのである。
こうした従軍看護婦さんの授業を教材化したいものである。この絵は学習の導入や課題追求に適切な1枚ではないかと思う。
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