はなまるうどん/中断/言語化に感じる限界(限定のありがたさ?)

出先で、時間ができたので、文章を書くことにする。先生とご飯を食べた後、先生が作業なさる前で、意味ありげにパソコンをたたいている。

それしかできなさそうな状況、が好きです。たとえば、今こうやって文章を書いているのも、適度に中断できつつ、先生に変な目で見られない作業として、ほぼこれしかできなさそうな感じがある。このとき、何の呵責もなく、それだけをちゃんと実行することができる。たとえば、電車に乗っているとき。もちろん、携帯を無意味に操作していたっていい(ふだん、布団で寝っ転がっているときと同様、何の意味もなくてもそれはできる)。けれども、割と本を読むことにあれは使える。自分が、「この時間を有効に使うために資する選択肢」が絞れている状況は、ぼくにかかる脳みそのリソース圧迫(?負荷?)を相当に減らしてくれる。
ああ、何をやっていてもいい状況が嫌いなわけじゃない。けれども、自分の行動が、役に立ちそうなとき、ぼくはぼくを許しやすくなる。根本的な自己受容が足りないといわれたらそれまでかもしれないが、実際に現時点で存在しないものについてどうこう言っても割とどうしようもない。それを育てるためにも、自分のことを好きでいられる状況を増やすことには、一定、どころか圧倒的な価値があるのである。

人といるとき、割と自分の在り方を調整している感覚がある(誰しも多かれ少なかれあると思うし、ぼくのことを肉体を伴った状態で知っている人は、お前ウソやろと思っているかもしれないが)。今も、先生は作業に没頭してらして、ぼくが何をしていようがおそらくお構いなしだろうと思う。ただ、それでも、ぼくの中から、見られているという意識はあんまり消えない(ちゃんとした集中をすると、完全に消すことができる。完全な集中はなかなか難しい)。


最近、長期的な目線での行動ができない話をちょくちょく書いている(と思っているのはぼくだけかもしれないが、まぁ、体感書いてるのよ)。もしかしたら、一気に書いているときのモードに復帰するときの”エネルギー必要感”が好きではないのかもしれない。


今、おおよそ800文字程度書いたが、これくらいだと、文字を排出しておきたい欲求が十分に収まらないようである。先ほど、中断され得る兆し(移動の兆候。まやかしではあったけれども)が発生したとき、「あぁ、この文章がどこかに出ることはないな」といった種類の諦めが発生していた。これはたぶん、1度目に書き出しているときのモードに戻ることが、ぼくにとってはそこそこ面倒なことである、ということなんだと思う。
いやね、考えがある程度構築されているものだったら問題ないんですよ。たぶんね。今書いている方式が(それ以外があるのか、ぼくにできるのかは知らないが)、書くことを通して考えるような方式であって、そうしたとき、マッチしない、ということなんだと思う。なんでかというと、一度中断された流れに乗ろうとするとき、それまでの過去の流れに乗りたいと自然と思ってしまうから。なぜそれが良くないのかというと、再開しているときのぼくの流れは、すでに過去の流れとは異なるものになっていて、だけれども過去の流れに合わせにいくこと(多少なりとも、心地の良くない文章に最初に身をゆだねる必要がある)をしてしまうから、だと思う。
こういう風に、自分の感情を言語化してみようとするとき、必ずしも上手くいっていないことを強く思う。まぁ、人に伝えるならそういうことかもしれないんだけど、本当にお前はそう思っていたのか?今から、都合の良い解釈でもって、その時体感したお前を葬っているだけではないのか?と思う。
体感しているものをすべて言語化できる、というのは少なくともぼく自身については非常な傲慢である(もう少しいうと、誰もできない。だって、言語化というのは部分に着目することではあるから)。けれども、だとしたら、その体感しているもののうちから伝えたいものをちゃんと選び取る必要がある。

じゃあ、現実に戻るよぼくは。あなたたちも戻る必要がある現実があるでしょうから。
またね~~~。


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