2-3月のメモ一部振り返り

今日は、ハローワークに行った。最近、少しさすがにだらだらし過ぎていて、ハローワークにも、当初伺う時間の2時間後くらいにようやっと行けた。冬の間に、本当にずっと着ているもふぁもふぁのフリースではなくて、タートルネックのロングTシャツと、黒のシャツを着られた。服装を、人に見られても問題ない状態に整えることには、本当に大きな効果がある。
ハローワークでは、番号札を取って、カウンターの方々に呼ばれることを待つ。ほとんどの職員の方が、「○○○番の方~」と呼ぶ中で、(ぼくがいた時間帯ではおそらく)一人だけ「○○○番のお客様~」と呼んでいる職員の方がいらした。カウンターの此岸にいる、我々はお客様なのか。

公的機関でのお客様なのか否か問題に心を揺らされつつも、確実に客であるサイゼリヤに逃げてくる。ランチのサイゼリヤの安さは異常で、パスタ(+サラダ+スープ(とりに行くのが面倒でとってないけど))にドリンクバーをつけても600円で食べられる。しかも、家と違って人の目があるので、多少しっかりして生きている感じがある。悪くないね。家の近所にあったっけか、と思う。行った記憶はないけれど、それくらいはあるだろうと、謎の高を括る(たかをくくるって、この漢字なんだね)。


メモ帳の最後のページまで埋めてしまったので、振り返る。2月の後半くらいから書き始めたものなので、ちょうど1ヶ月くらいで書ききったことになる。正直、毎日のように書けているものではなくて、何かの展示に行ったりだとか、イベントに行ったりだとかをすることによって書いている(それがどうだ、とかではないが)。その時々に真剣に考えた痕跡は僕自身にとって心地が良くて、ちゃんとまとめられそうだったらこういう場所にもちゃんと書きたいなと思えるものであった(まとめられそうにもないので、ちょっと諦めている)。ぼくは割かし僕の制作物のことが好きで、それは、一回客観的にみられると、作っているときに思っていたほど悪くはないじゃないか、と思えるからであった(そう思える、ということ自体、本当に客観的に見ることができていない、ということでもあると思うけど)。

『ミエナイモノ展』的な名前の、銀座あたりでついこないだまで行われていた展示(すいません、元気のなさゆえに正確なところを省いています。ご容赦ください)で、ユニコーンの蘇生を展示している作品があった。とても精巧なユニコーンで、死と生について、考えなければならないというか、見たときから考え始めてしまう作品であった。
かのユニコーンには、おそらく血が流れていて、蘇生機器とユニコーンをつなぐ透明なチューブには、生きていることの証明であるかのように、血が脈をうって動いていた。生とは、もしかしたらどうしようもなく続いてしまうものなのかもしれない。
かのユニコーンは臓腑をこちら側に見せてしまっていて、グロテスクだった。臓腑自体がグロテスクでもあったが、死、あるいは蘇生が、彼(彼女?二人称を表す、彼(あの存在)として読んでいただきたい)が別に見せたいわけではないだろう部分が、無理やりにでも見せられてしまう。そこにもう意思はない。物体としての存在しかなくなってしまう。

では、わたしはどうなのか。どうしようもなく続いてしまっている生の中で、死んでいないと本当に言えるだろうか。死について、自分では経験できないらしく、そうなると、ただ想像して、自分がその状態にあたるかどうかを考えなくてはいけなくなる(なんてったって、ベッドで動いていない時のことを死としてとらえることだっておそらくできる)。

あぁ、いやですね。生死について語ると、どうしても暗くなってしまう。暗くなく書くこともできないし、書くことによって軽視してしまう部分がありそうな気がする(そんなことはないのかもしれない。ぼくにとって、生死がある程度ファンタジー的なものになってしまっていて、そこに踏み込むことが野暮、みたいな価値観が発生してしまっている)。

生死だけでなくて、ともすると誰かのことを軽く(自覚なく)扱ってしまいそうな様々なテーマ(たとえば政治とか、権利とか)について、自分なりにでも誠実さを持って扱えるようになりたい。どうやってなるんだ。ちょっとさすがに漠とした理想すぎるので、リファレンスできそうな人でも探したいものです。難しいね。精進していきます。

またね~~~。

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