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34歳会社員がラジオパーソナリティーに転職した話①

「ニワトリ」の初鳴き

「4月5日」は私にとって特別で忘れられない一日だ。
今から10年前、2011年4月5日は私の「初鳴きの日」である。

放送業界では、新人アナウンサーが初めて電波に声を乗せることを指してこのように表現をする。そう、この日はラジオパーソナリティーとしての初鳴きの日だった。

10年前のあの日、生放送が今まさに始まるという瞬間の、あのとてつもない緊張は忘れられない。後にも先にもあんなに緊張することはないだろう。
それまでも緊張で手が震える経験は幾度もあったが、緊張のせいで指の第一関節に痛みが走るという症状は初めての経験だった。
そして震える左手に握られた進行表は静寂を打ち消すように音を立てる。

「ああ!!私!!激しく緊張している!!これはやばい…!」
手汗で濡れた右手でカフを上げた。

「4月5日火曜日、時刻は…」
どこから出たんだこの声は…高めにすっぽ抜けるハイトーンボイス。
後ろから誰か私の喉を締めているのか?声帯がきつく締まっていくのを感じる。

それはまるで怯えるニワトリの弱々しい悲鳴…


FM岩手は、いわゆる県域放送局のため、聴取エリアが岩手県全域(隣県の一部地域でも)だ。岩手県の人口は2011年当時で130万人を超えていた。詳しい数字はわからないが、その中でも万を超える数の方がその時間帯の放送を聞いていくださっているという話を聞いていた。
万を超える岩手県の皆様が新番組のスタートを、得体のしれないニワトリの初鳴きを聞いていると思うと…
ああ今思い出しても緊張する。

初鳴きからほんの2週間前まで東京で会社員をしていた34歳の私が
二十数人ほどを前にした朝礼スピーチで脚が震えてしまうくらいのあがり症の私が

どんな経緯で、岩手県でラジオパーソナリティーとしての一歩を踏み出したのか。そんな話をゆっくりとしていこうと思う。私はとにかく話が長いので笑、この話も数回に渡って認める。


「当たり前の道」を疑わず

そもそもは、さらに遡って2008年、今から13年ほど前のこと。
31歳の当時はそれがごく当たり前かのように順風満帆の人生を送っていたように思える。
子どもの頃から、住まいや暮らしに興味があったこともあり、インテリア商社での仕事は自分に合い、営業事務としてお客さんとコミュニケーションを重ねる日々は充実していた。

31歳、今と比べると身体もよく動き、体力もあった。私生活もうまくいっていた。
私はこのまま仕事を続け、普通に結婚をし、家族に囲まれながら幸せに歳を重ねていくんだろう…

なんて。

なんの疑いもなくそんな未来を思い描いていた。
若さゆえだったのか、ただただ平和ボケだったのかわからないが、「当たり前」と思う道がこの先にはあると信じていたのだ。

そんな私の頭上にある日、黒い雲が垂れ込んできた。そしてその黒い雲が空を覆い尽くすまでは、あっという間だった。


最初の異変

最初の異変は2008年5月のとある休日、その日は初夏を思わせるような陽気だった。
私は生意気にも、あの名店浅草今半でランチにすき焼きを食べ、腹ごなしにと散策を楽しんでいた。
夕方近くなり、池袋に移動しようかとバスを待っている時、急にお腹が痛くなる。

それはひどい生理痛だった。脂汗が流れ動けなくなる。こんなに痛くなることはなかなかないのに。すぐにドラッグストアに入り鎮痛剤を飲むが、効きが悪い。
数時間経っただろうか、ようやく痛みがなくなり、夕飯を食べ無事帰路についた。

鎮痛剤が効けば痛みは嘘のように引いてしまうが、これまでにない痛みは少し心配だった。
30代といえば婦人科疾患が増え始める頃だ。それまでは婦人科検診を受けていなかったので一度はちゃんと診てもらうかと、日を置かず職場のそばにある婦人科を受診した。

初めての婦人科検診はなかなかに緊張するものだった。

ああ、こんな体勢に…そうですか…

恥ずかしがっている場合ではないと今なら言えるが、当時は婦人科を受診する敷居が高く感じられた。

エコー検査、子宮頸がん検査等々してもらい、検査結果は「問題なし」とのことだった。
問題なしの言葉にホッとした私は、その後も何度か重い生理痛を感じたものの鎮痛剤で紛らす…という日々を送っていた。だって問題ないって言われたんだもの。

問題が発生したのはそれから5ヶ月後。
私は突然それまでに経験したことのない激痛に襲われ、人生初の救急車に乗せられることになる。それはもはや「大問題」だった。


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