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34歳会社員がラジオパーソナリティーに転職した話④

無計画に勢いで書き始めてしまったため、連載になってしまうという誤算。
前回の記事より3週間も空いてしまった。

34歳の会社員がラジオパーソナリティに転職するようになった経緯について書き連ねている。前回の内容は、こちらから読むことができます。
34歳会社員がラジオパーソナリティーに転職した話③

子宮内膜症によるチョコレート嚢胞という可愛い名前の病名が判明したというところまで書いた。その後の話。


不穏な空気

青梅マラソンへ出場することを目標に掲げ、平日は仕事から帰宅した夜、休日には狭山湖や航空公園へ出かけ、ひたすら走りこむ日々。
単純なもので、運動を定期的にしているだけで健康体になれているような気がしていた。

月に一度やってくる生理痛も、痛くなる前に鎮痛剤で迎え撃つという方法をとっていたため痛みを感じることもなかった。
知らないうちに嚢胞も小さくなっていたりして…
(閉経前にチョコレート嚢胞が自然に小さくなることはめったに無い)

そんな状況で迎えた数カ月ぶりの定期検診。
エコー検査で私の卵巣を見ていた医師から、それまでとは違うトーンの声が聞こえてきた。

「あれ…おかしいな…」

(おかしい??おかしいってなんやねん)

医師は近くにいた看護師に声をかけ、前回のエコー画像やMRIの画像を急いで持ってくるよう指示をした。
看護師がパタパタと小走りになる音が聞こえると、首の後あたりが寒くなるような感覚がした。

(なにか起きた…?)

あたりには不穏な空気が漂う。
私は診察台を降り、医師と向かい合う。
医師は、看護師から手渡された白黒の画像を手に難しい顔をしている。

「確かに間違っていないですよね…」

カルテの私の名前とMRIや前回のエコーの画像にある名前を見比べている医師の顔にはこれまでの穏やかな表情が消えていた。

医師はしばらく考えてこんで口を開いた。

「落ち着いて聞いてくださいね」

(あ、やばい話する時の前置きベスト1のワードだ)

「今日はご家族といらしていますか?おひとりですか?」

「母が外に…」

母を交えて話がしたいと言われ、待合室でのんきにテレビを観ていた母を診察室に招き入れた。


ドラマで観たような景色

あの時診察室で見えた光景や色をよく覚えている。
医師の頭越しに見える窓からは、カーテンの隙間を縫うように西日が差していた。暗い部屋の中に影を描くように。

(なんでこの部屋こんなに暗いんだろう…)

母は私の隣に座り、急な展開に戸惑っているようだった。

「これまでの検査の結果、良性の嚢胞だと思っていましたが、悪性腫瘍の可能性があります」

医師の言葉はド直球すぎた。

「前回診た時と比べて、嚢胞が急速に肥大しています。通常ここまで急に大きくなることはなかなかありません。」

今起きていることがにわかには信じられなかった私は

「あの…最近ランニングばかりしていたので…運動しすぎで大きくなったとか考えられませんか?」

「考えづらいです」

私の頭の中では警告ブザーが鳴り響いていて、それでもどうにか楽観視したくてひねり出した「運動のし過ぎ説」
これは当然ながら秒で否定された。

「嚢胞部分の顔つきが悪いです。卵巣の悪性腫瘍の可能性があります。そのなかでも5年生存率が低い種類のものが疑われます」

ここまではっきりと言われてしまった。

「私、まだ若いのに…」

言葉が、こらえていた涙と一緒にこぼれた。

「まだ決まったわけじゃありませんから」
と医師が言う。

そんな張り詰めた空気に耐えられなくなった母が、場違いな明るい声で医師に問う。

「先生、でもほら、悪性って言ったって、「癌」じゃないんでしょ?」

(ちょっと何言っているかわからないです)
サンド富澤さんのツッコミが飛んできてもおかしくないところだが、母の頭もやはりこの状況を処理しきれないでいたのだ。

「お母さん、悪性腫瘍なら「癌」ということです」

医師容赦なし。

言葉を失った母の隣で泣きじゃくる私、暗い静まり返った病室には私の泣き声だけが響いていた。

(まるでドラマじゃんか…)

泣きながらも頭の隅ではそんなことを考えていた。


平和な明日が来ない?

帰りの車の中で、助手席に座る私の泣き声はさらにその大きさを増していた。

医師の話。
このままだと卵巣の嚢胞が破裂する恐れがあり、仮にこれが悪性腫瘍だった場合、癌細胞が腹膜に飛び散る可能性がある。そうなれば他に転移する恐れがある。
破裂する前にすぐに開腹手術を行い、病巣がある右卵巣とリンパを摘出。
取り出した嚢胞はすぐに病理検査に出し、悪性か良性かの鑑別をする。

緊急手術は二日後に行われることになった。

「もっと長生きするつもりだったのに!」
「なんで私が!」

運転する母の隣で弱音を吐き捨てる。
31歳の大泣きだ。

母はハンドルを握りながら

「まだ決まったわけじゃないから。先生だって「可能性」だって言ってたでしょ…」

その声も弱々しいもので、泣き叫ぶ私には届かない。

「もっと生きて、もっと好きなことしたかったのに!飛行機が苦手だなんて言わないで海外旅行に行けばよかった!」

「治ったら行こうよ。一緒に海外旅行しようよ。好きなことしよう、もっと挑戦しようよ」

母の声を聞きながら、私はしばらく泣き続けた。


私は何の疑問も持っていなかった。自分は平均寿命まで生きられると信じていたのだ。


それが、初めてその日気づかされたのだ。
平和な明日がやってくる保証なんて、どこにもなかったということに。


いよいよ二日後、人生初の手術の日を迎えた。

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