34歳会社員がラジオパーソナリティーに転職した話⑥
会社員だった私が、34歳でラジオパーソナリティに転職するようになった経緯を書き連ねている。
今、44歳なので、ラジオパーソナリティになったのは10年前のこと。
そういえば、全く内容と関係ない話。
タニタの体組成計によると私の体年齢は「33歳」らしい。ここ数ヶ月、ひっそりダイエットをしているのだが、その効果があって基礎代謝が上がったことが功を奏しているようだ。
そういえばここ最近は身体が軽い。階段の上り下りや、駅までのダッシュが前より楽になった気もする。
ダイエットに成功した暁にはそんな体験談も書こうかなぁ。
前回の内容は、こちらから読むことができます。
34歳会社員がラジオパーソナリティーに転職した話⑤
手術直前、まさかのトラブルに見舞われながらも、私は全身麻酔によって深い眠りに落ちていた。
全身麻酔からの覚醒
「…さーーん。…聞こえますかー…?」
遠くから私を呼ぶ男性の声がする。
「……終わりましたよーー」
はっ!!と突然意識が覚醒する。
眠りから覚めた第一声。
「ごめんなさいっ寝てしまいました!!」
深い意識の底から帰ってきた第一声がまさかの謝罪。男性医師の柔らかい笑い声が聞こえる。
「麻酔で寝ていたんですよ、手術終わりました」
ああ、そういえば私、手術していたんだっけ。と思い出す。
初めての全身麻酔は、予想外の心地良さがあった。
それはまるで、冬の日に学校から帰ってきて、こたつに入ってテレビドラマの再放送を観ていたらそのまま寝落ちしてしまった時のような。
覚醒直後の謝罪は、「いつまで寝てるのよ!」と叱る母を思い出したのかもしれない。
しかし、心地良さにそぐわない物が口についている。
酸素マスクだ。これまた生まれて初めての経験。
そしてもうひとつ初めての経験というと、尿道カテーテルだ。
開腹手術を終えた私はすぐには歩くこともできないので、数日間は管を通し自動的に排尿をすることになる。
手術によるダメージを全く感じていない私は、心配しているであろう両親を安心させようと、ここからはテンションが高めになる。
手術室の扉が開き、キャスター付きのベッドで運ばれる私を両親が覗き込む。そんな二人に向けて私は
「大丈夫大丈夫!気持ちよく寝ていたよーーー」
二人の間の張り詰めた空気が柔らかくなっていくのを感じた。
頭は回るが、呂律が回らない
病室に戻ってからも、手術直後とは思えない軽いノリでお喋りを続ける。
しばらくすると4つ下の妹がやってきて、両親は入れ替わるように帰っていった。
私はというと、妹を相手に手術前の笑い話などをペラペラと喋り続けるのだが、しばらくして妹がひと言。
「寝たほうがいいよ、あんた、ロレツが回っていない」
なんということだろう。
気持ち良く、はっきりと話しているつもりが、呂律が回っていないだなんて、私自身は全く気づいていなかった。
そんなタイミングで看護師さんが様子を見に来てくれる。検温すると熱は38度を超えている。
全身麻酔下での開腹手術が心地良く、何のダメージもない…なんてことはあるわけがなかった。
最初の夜
平熱35度、めったに発熱しない私にとって38度を超える熱というのはまあまあしんどい。
お腹を縦に10数センチ切っているため、動くこともままならず、かと言って寝ることもできず。昼間の余裕はどこへやら。
そして夜、困った症状が出てきた。上半身がとにかく痒いのだ。
あまりの痒みにナースコールを押す。看護師さんに診てもらうが特に身体に発疹はないとのこと。
後日インターネットで調べたところ、硬膜外麻酔(脊髄近くの硬膜外に管で入れる麻酔)の副反応に「痒み」があるらしい。
最初の夜は、熱と痒みとの戦いで熟睡とはいかなかった。
全身麻酔ではあんなに気持ちよく寝ていたのに。
術後の経過
翌日以降、手術直後の余裕綽々な私は見る影もなくなっていた。
二日後だったか、ベッドの上で上半身だけ起き上がらせてみようと看護師さんに支えられつつ挑戦してみるが、その瞬間ひどい目眩と吐き気に襲われる。すぐにベッドに横になり半泣き。
たった数日寝たきりなだけで起きることもままならなくなってしまった。このまま一生起きられないかも…と弱気になる。
そして何よりお腹が痛いのだ。
硬膜外麻酔を腰から下げている間はまだいい。ただボトルの中の麻酔薬がなくなってしまうと大変だ。
痛みを感じない状態だったのに、遠くから、これまで出会ったことのないような猛烈な痛みが近づいてくるのがわかる。足音がだんだんと大きくなってくるという感覚。
ま、まずい!このままでは痛みに飲み込まれる!とナースコールをすかさず押す。
麻酔がない状態だとこんなに痛いのか…と一瞬、その痛みのさわりだけを体感する。実際数日すると硬膜外麻酔を外し、その強敵と戦う羽目にはなるのだが。
身体を起こせるようになり、尿道カテーテルも取れ、硬膜外麻酔も取れるようになると、歩行訓練が始まる。
点滴スタンドと手すりを支えに、病室の前の廊下を往復する。これだけで疲れ果ててしまう。青梅マラソンに出るなんて息巻いていたあの頃が嘘のよう。
ちなみに、普通に歩けるようになるには1ヶ月以上はかかっていたと思う。
退院後も仕事復帰するまでの数週間はひたすら近所を散歩して歩行訓練をしていた。お腹を切るということ、ベッドの上で寝て暮らすということは想像以上に運動能力を奪ってしまう。
そして手術から1週間ほど経った頃、摘出した卵巣の病理検査の結果が出たと医師に呼ばれた。良性なのか悪性なのか、いよいよ答えが出るのだ。