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月の裏側

人には盲点があるそうです。

普通に生きている人生の中では、自分の盲点に気がつくというのは難しいとのこと。

Dark Side of the Moonという言葉がありますね。

月の裏側という意味で、
月の裏側は地球から決して見えず、謎に包まれているというところから、dark sideと言われているそうです。

人にもきっと、同じような側面があるんじゃないかなと思うわけです。

普通に生きていたら、決して見ることはできない、月の裏側。

それとは少し違う話になりますが、瞑想をしていたときのとある体験なんです。

瞑想中に、なんとも言えない優しさと至福の中に包まれたことがありました。

言葉で表現してみれば慈悲とでもいうのかな。

誰も責めておらず、ただあるがままを照らしてくれる。

そんなエネルギーでした。

その光に照らされて見えてきたことは、私が活躍し、称賛されている時のことでした。

父が亡くなったときの一連の出来事でした。

当時、まだ高校生の妹には、これ以上辛い思いはさせまいと、自分が父親になったような気持ちで立ちふるまっていました。

葬儀の事務的なことや親戚の対応にも配慮し

父への最後の親孝行と、20代の私としては、本当によくやりきったなと感じていました。

周りの方たちからも

「女にしとくのはもったいない。まるで長男だ。頼もしい。むっちゃんがいるから安心だ。」などと、

褒められてるのか?微妙な称賛を得たりしており

「これでよかった。妹も母も守れたし、私はよくやった。」

と、この年になるまで疑いもなく思っていたわけです。

ところが、その慈悲の光は
称賛を浴びている私の影になっているところにも光をあててくれたのです。

そこには妹がいました。

私が妹を守ったと思っていましたが、そうじゃなかった。

一見、妹は、ただ悲しんで、何もしていないように見えましたが、そうじゃなかったんです。

妹が、あの場を支えていたことを見せられました。

何かをするとか、何かを言うとか、そういうことではなく

妹という存在が、私やあの場を支えてくれていたのです。

私は自分に光が当たっていて、その影になっていることに、全く気がつかず、見えなかったんです。

人が死ぬと、その人のこれまでの人生を、神様と一緒に見ると聞いたことがあります。

神様の視点で一緒に見たとき、はじめて何が起こっていたのか、その全てがわかるそうです。

あの時の瞑想は、まさにそんな神の視点だったように思います。

そして、あの慈悲の光は、けっして誰も責めていなかった。  

ただ、あるがままを照らしているだけでした。

私たちは、光が当たっているところだけを見て判断してしまうけれど、

月の裏側のように、誰の目にも触れることなく、表側を支えてくれる存在があるのでしょうね。

コインの表と裏のように決して出会うことはないけれど、

その両方が影響しあい、支え合っている。

自分が誰の役にも立っていないとか、

人に迷惑ばかりかけてしまうとか、

そんなふうに感じてしまうこともあるけれど

(逆パターンもありますね。あいつは迷惑しかかけない!とか。)

私たちは、どこでどんなふうに支えあっているか、役に立っているか、意外とわからないものなんじゃないかなと思うわけです。

そういうこと、忘れちゃったらおしめーよ。

死ぬ前に、あの時の私の影になっていた妹の存在に気がつけて本当によかった。

私もどこかで、誰かの月の裏側になれているかな?

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