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それでも生きるよ。きっと。

今日この約3ヶ月弱の間に起きたことをある人に話し、色々試行錯誤していると大変なんだと話した。その人の中の私は、元気だった頃の私しか知らないし今日も殆ど笑いながら話していた為、病院に行っているのが良くないんではないかということ・考え過ぎなこと・働いている限りどうにでもなること・若いうちの失敗は後々糧になること等助言してくれ最後は、笑顔で“紫春ちゃんなら大丈夫“と返された。

理解され難い病気、心療内科の通院、励ましの大丈夫という言葉がこんなにも今の自分には“キツい”ものなんだと知った。まさか一般的に見て通院自体を否定されるとは、正直思わなかった。悲しくなった。自分は間違っていたのかと。
働くことが出来ない程の状態になった私に、“働くことさえ出来れば大丈夫、どうにかなる”などと云う言葉が返されるとも思っていなかった。
これは私が過度に、相手に対して期待し過ぎていたのだろうか。

確かに一般的な“普通に働く”ことが出来ていれば経済面で困ることも、悩むことも、余裕を失くすことも無いと思う。
なら、それらが出来なくなってしまった私含め、同じ様に苦しむ人達はどうすれば良い???
潔く生きることを諦めろというのだろうか。
普通をもう求めるなというのだろうか。
こんな状態でも甘えるなというのだろうか。
“普通の生活を送ること”すらキツいと感じている人に、考え過ぎ・悩み過ぎ等と云う安易な言葉を投げ掛けるのはどうなのだろうか。

私という全てを否定された様に感じた。
でも、それがきっと“普通”なんだろう。
一度も経験・体験したことが無い人からすれば、分からないのだろう。
想像することも出来ないのだろう。
実際、私の症状自体同じ病名でも軽い方だから大差無いように見えるのだろう。

仕事でも、家族との距離感にしても、人間関係にしても、毎回何処かで・何かで妥協しないと無理だと言われる。
そんなことは重々承知な上で、私はそれでも声を上げているのだ。
人よりも敏感で繊細で脆くて、生き辛さと謂うものをずっと抱えて今まで生きてきたのだから。謂えば“限界”なのだ。
皆が謂う、“妥協“をするということが。

それでも尚、妥協しないと生きていけないと言うならば“生きる”と謂うことを私は考え直す。
私の思う、“生きる”と謂う事は何なのか。

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