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3 ウィンターボーン② 平和な日々
「面影を追い続ける男」 3 ウィンターボーン② -平和な日々-
イギリスの夏はサマータイムのため、日が落ちるのは九時頃になる。
その夜はこの村の特別な日だった。年に一度の野外コンサートが行われる広場に、次第に人々が集まりはじめていた。緑の草が揺れるなだらかな丘を登り、白くさざめく小さな花たちに迎えられる。
舞台に立って眺めると、めいめいが好きなものを持って川を越え、遠くから細い道を歩いてくるのが見える。
バスケットを持って手をつないでいるカップル。ふさふさした犬を連れて来る老人。椅子を担いでくる男もいる。コンサートは八時半頃からはじまり、気が済んだら終わる予定。
ドラムの音が鳴り始め、アルトサックスとベースとピアノがそれを追いかける。そして、心地よい歌声が聴こえる。演目の曲が何だったかは思い出せない。覚えているのは、それぞれの演奏者の指の形だけだ。
サックスのきびきびとした力強い指使い、ベースの浅黒くしなやかな細長い指、そしてピアノを弾く指は鍵盤を撫でるように滑っていく。
あちこちでワイングラスを重ねる音が響き、サンドイッチをつまむ者、草地で寝転がり星を見ている者、ひっくり返ってそのまま眠ってしまう者。
そんな自由な時間を楽しむ姿を見ていると、胸の中を涼しい風が吹いていく思いがした。
そして俺は、マイクを持つ彼女と何度も目を合わせた。
みんなこの年に一度の時間をよく知っていた。暗くなってくると、一人一人がランタンに灯をともした。少しずつ冷え込んでくる夜に備えて、コートや毛布まで持参している。
終わるまで誰も帰ろうとしない。何曲予定をオーバーしているんだろう。でもいつまでも続けていたい。これこそが演奏者たる者の醍醐味だ。
ああ、平和だった日々。この村は変わってないだろうか。彼女の声が木霊する。
*
あの時滞在した家を訪ねてみた。主人は不在だったが、奥さんが食事の支度をしていた。羊を煮込んだ香りがそこら中に漂っている。ここは、あの日から何一つ変わってないように見えた。
コンサートの広場への坂道を歩いていくと、犬の散歩中の主人にばったり出くわした。お互いに曖昧な笑みで挨拶し合う。
「あの、覚えてる?」
俺はポケットから彼女の写真を取り出して見せた。主人は急に全てを思い出したかのように
「もちろんだよ」と答えた。
「彼女が行くとしたらどこかな?」
彼は悲しげな目で俺を見つめた後、言葉を切りながらこう言った。
「彼女はよくアメリカにあこがれていると話していたね。この国を離れる勇気があれば、と。迷った時は最西端の海へ行って、目を凝らして海の向こう側を見ようとするのよって」
彼女がアメリカに行きたがっていただって? そんな話は聞いたことがない。
「彼女はいつ、あなたにそんな話をしたんですか」
「朝早く、井戸のところでね。よくこいつの散歩もしてくれたよ」
そう言って、主人はしっぽを振る犬を指さした。
朝のあの笑顔は、その日一番に俺に見せていたものでさえなかった。
俺は、今来た道を全速力で走っていた。もう振り返ることはなかった。
西だ。俺はA30を、ひたすら西へと走り続けた。
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