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想像力のリミッターを外す
想像力があり過ぎることは、必ずしも「良いこと」ではないのではないか…
そんな疑念が、子どもの頃からありました。
周囲の人間とかけ離れた「ナナメ上過ぎる想像」は、なかなか理解してもらえません。
幼いうちは語彙も説明力も未熟なので、自分の頭の中にあるものを、上手く言葉にすることすらできません。
そんな状態で「頭の中に浮かんだもの」を中途半端に説明すると、馬鹿にされたり、変な目で見られたりもします。
「赤毛のアン」では、空想好きなアンが、見る景色見る景色に自分の想像を重ね、それを口に出さずにはいられず、そんな所を周囲から「変わった子」という目で見られていますが…あれ、自分にはすごくよく分かるのです。
「ヘンな子」「ちょっと違う子」「何だかよく分からない子」という視線は、子ども心にも分かり、心が傷ついたりするものです。
「他の人が想像できないもののことを言うと、悲しい思いをする」――そう“学習”してしまったなら、想像を口にすることも、表現することも怖くなってしまいます。
「本当の想像」を隠し、「他の人でも理解できそうなレベルの想像」のみ口にしたり、説明の言葉を周りに「寄せ」たりしてしまいます。
いつの頃からか、そうやって「本当の想像」を語らない――それどころか、そもそも「本気の想像」をしないようにしてきた気がします。
しかし「小説でなら、その禁を破っても良いのではないか」「むしろその方が独創性が出て良いのではないか」と思うようになりました。
そうやって「想像力のリミッターを外す」ことを目標に書き上げたのが「夢の降る島」シリーズ第1作「夢見の島の眠れる女神」です。
「世界の真ん中で眠る女神」「文字通り“夢”の降ってくる島」「情報伝達手段が紙ヒコーキ」「島の中を移動するだけで季節が変わる」「花びらでできた砂漠」「星の回転によって零れ落ちる音」「オパールの階段」等々、好き勝手に妄想したイメージがてんこ盛りとなっています。
そして、それが曲がりなりにもちゃんと「ストーリー」を成しているのが、我ながら、なかなかすごいところだと思います(←盛り込まれている妄想が、本当に多種多様で「とっちらかった」感じなので)。
…ただ、そうやって「ストーリーを成立させる」ために、想像力のリミッターを外しきれなかったところがある――どうしても、既存のファンタジー児童文学の“枠”を「脱しきれなかった」気はしています…。
ちなみにこの「夢の降る島」、現在のところ3年連続で専門学校の授業課題に使っていただいています!
作者の好き勝手な妄想イメージの数々まで、細かく絵にしてくださっている方もいて、本当にありがたいです!