自分の作品に対する「アンチテーゼ」を自分で書くのが好き
なかなか理解を得られないことかも知れませんが…
自分の作品に対する「反対意見」を、自分で立てるのが好きです。
以前書いた作品とは「真逆」の作品を書くのが好きです。
いっそのこと、前作を「否定」する勢いで書くことすらあります。
なぜ、そんなことをして喜んでいるのかと言うと…
どんな物でも意見でも「絶対的に正しい」「全て肯定される」ということは無いと思っているからです。
否定されない意見など無いし、否定されない物語も無い…
それなら、まず自分自身が、最初にソレを否定する人間になろう…そういう思いがあるからです。
誰かに言われて初めて気づくのではなく、まだ誰も気づかないうちに、自分で自分の理論の「スキマ」を見つけておきたいのです。
たぶん、究極の「負けず嫌い」なのでしょう。
そもそも自分は「自分を否定すること」が嫌いではありません。
過去の自分を否定することは、古い殻を脱ぎ捨てて「進化」するということ…
むしろ、1つの考えに固執していては、そこで成長が止まってしまい、それ以上の進化は見込めない…そんな風に思うのです。
実際、過去の作品を「否定」して、新しい物語、新しい考え方を獲得するたびに、精神的な視野が広がるのを感じます。
それまで1つの視点しか持たなかったのが、2つ、3つと、新たに視点を獲得し、様々な角度から物が見られるようになります。
特にその傾向が強いのが、青春オムニバスSS集「青過ぎる思春期の断片」なのですが…
たとえば「母娘関係」ひとつとっても、第4弾『陽の当らない栄光』で「理想的な母娘関係」を描いた後には「いや、そんな『良い』母娘関係ばかりじゃないだろう」と…第26弾『心の中で母を棄て去る』では「こじれた母娘関係」を描いています。
(同様に第5弾『真面目に生きるのが馬鹿らしい、なんて』と第25弾『愛を失くした正義の、その名を』では、真逆の父子関係を描いています。)
第9弾『夢見がちな大人が夢を奪ってくるので、僕は夢を秘匿することにした。』で「思うように夢を追えない苦悩」を描いた後には、「そもそもその『夢』すら見つけられない苦悩もある」と、第27弾で『この世界に魅力を感じない俺に、進路の選び方を教えてくれ』を書いています。
(そしてさらに第29弾『電車で5分、日常からのプチ逃避行』では、「『将来就く職業』だけが『夢』じゃない」ということを描いています。)
そもそもこのシリーズは「なるべく多くの視点・立場の人間・人生を描こう」という目標を持って書いていますので、「前に書いた物語とは『真逆』の立場の人間の物語」は自然と出てくるのです。
ただ、こういう対極的な小説を2種類出すと、「自分の意見と合う・合わない」「物語の主人公が自分と似た立場か、全く逆の立場か」で小説を評価するタイプの読者には、必ず「どちらかが評価され、どちらかは酷評される」ことになるでしょうから、そこは少し怖いところなのですが…
「自分と異なる立場の人間」の視点や考えを「想像」することは、物書きにとっては普通に重要な能力ですので、これからもそこは磨いていくべきだろうな…と思っています。