他者の幸不幸への興味について・理性と共感性
興味が向かう先は人それぞれ異なると思う。
私の人間についての興味はその精神性に向かっている。その人が何を考え、何を悩んでいるのか、とても気になるし、それに触れたいと思う。だから深くて重い話が好きだし、友達の悩み相談に乗っている時は、負担ではあるけれど、意味のあることをやっていると思うし、誤解を恐れず言えば、楽しい、とも思う。
誰かの敵意や悪意に触れるときでさえ、その苦しみや気持ち悪さも含めて、それがその人自身のものなら、私はそれに共感して、吐き気を感じつつ、やはり「楽しい」と思うのだ。エキサイティング、なのだ。
だからこそ、だろうか。人の所有物や成功話、失敗話にはあまり興味がない。自慢話を楽し気にしている人の、その楽しい気分が私に伝わってきて私自身が楽しめることはある。でも、楽しさというのはワンパターンだと必ず飽きるから、ずっと同じ感情で話されても困る。
しかも理不尽なことに、Aさんと話したあとにBさんと話すとして、Bさんの話すときの感情がAさんと話すときと似ていたら、それでもやっぱり「飽き」は適用されて、私はうんざりする。
必然的に私は、複雑な感情を抱くことのできる人が好きになる、というわけだ。そしてそういう人は、現代において稀だ。とても稀だ。生きるのに不利だから。利益を得るのに不利だから。この時代、気楽そうに生きている人たちは、頭が単純な人が多い。優れていて、単純な脳を持っている人が多い。私はそういう人が気に入らない。
多分そういう人たちも、私のことは気に入らないと思う。能力はその人自身の方が秀でているのに……何かを感じ取るのだろう。私の中に、自分にはない何かを感じ取ってしまうのかもしれない。それで気分が悪くなるのかもしれない。それは想像するしかないけれど、ともあれ私は、そういう人との相性があまりよくない。
「人の不幸は蜜の味」というのは昔からよく分からなかった。嫌なやつが痛い目にあったら「ざまぁみろ」という少しすっきりする気持ちになるのは理解できる。(でもそのあと毎度自動的に自己嫌悪してしまう)
しかし、自分がよく知らない人の不幸を見て喜ぶの人の気持ちは、本当に昔から少しも理解できなかった。
その代わり、誰かにちょっとした意地悪をして、その子が涙ぐむところを見るのは好きだった。かわいらしいと思ったし、頭を撫でてあげたくなる。逆に言えば、人にひどいことをして、そのまま放置することは、私にとって苦痛でしかなくて、私は……自分のそういう感情というか、習性が、どこから来ているのかは分からないけれど、ともあれ私は、他の人が不幸だからといって、自分が幸せを感じられる人間ではないのだ。
人が幸せであるほど、私も幸せを感じる。
もしかすると、一度不幸せになった人間が幸せを感じた時の、そのギャップによって生まれる特殊な幸せが好きだから、人に意地悪をして泣かせたがっていたのかもしれない。ともあれ、私が誰かの不幸せを見て安心したり、落ち着くことはない。ただ気分が悪くなるのだ。
きっとその習性は道徳性の問題や人間としての優劣の問題ではなくて、後天的に獲得された……経験的な学習の結果だと思う。
つまり、身近な誰かが幸せな時、私はその幸せな人から利益を与えられることが多く、逆に身近な誰かが不幸な時、その人から害を与えられることが多かったから、だと思う。実は共感性って、そういう風にして育まれるのではないか、と思って。
誰かから何かを奪って喜んだ結果が多ければ、人から奪い、誰かを泣かせて放置することに喜びを覚えると思う。でも誰かから何かを奪ってその結果手ひどいしっぺ返しを受けたことが多ければ、誰かから何かを奪うことはもうそれだけで罪か何かのように感じるようになるのではないか、と思う。
競争の中で生きて、誰かに対して勝利して、その快感の中で生きてきた人や、そういう人を親に持って生まれてきた人は、どうしても他者の不幸を蜜の味だと感じてしまうのかもしれない。もしそうなら、私がこういう人間になったのはただ運がよかっただけだし、それについて人に誇るのは違う、と思う。私はたまたま、勝つことも負けることも、生きていく上で必要としなかった人の中で育っただけだ。
共に喜び、共に泣く。相手を限定せず、誰に対してもそのようにしたい。私の中には博愛主義がある。でも私はこれを少し憎んでいる。だってこの世界には、喜んでいる人よりも泣いている人の方が多くて、私の共感性は、私を喜ばせてきた以上に私を痛めつけてきたから。
勝者は少数で、敗者は多数である。そして勝者の感情よりも、敗者の感情の方が強い。なぜならば、敗者の方が状況が深刻であるからだ。強者、弱者と言い換えてもいい。
私は他者の幸不幸には興味がない、と思っていたけれど、こう考えてみると、興味がありすぎるから、それに意識を向けないようにしている、というのが正しそうだ。
他者の幸不幸が、私自身の幸不幸に強く影響することを、私は知っている。知っているというより、そう思い込んでいるという方が正しいかもしれない。
きっとこれは私の弱さ、つまり臆病さがそうさせているのではないと思う。
何はともあれ、私は私の中の何をも捨てるつもりはないのだ。そのせいで破滅したり狂ったりするとしても、私は共感性と理性の両方を持って生きていく。
私の理性は、私の共感性を、他者に対する優越ではなく、生存という目的に対して不利にはたらく恐れのある劣った特質として見る。
私の共感性は、私の理性を冷たくて気分の悪い「目」や「手」として感じる。
それでもその両方を持って生きるのだ。
おそらく、そう決めることができるのは、私の「強さ」がそうさせるのだと思う。