自分の中にはないものは想像できない。では、想像できる他者の姿は自分の何なの?
自分の中にはないものは想像できない。では、想像できる他者の姿は自分の何なの?
小説を書いていると、色んな人物の性格や人格をシミュレートすることができるようになる。
自分が生きていて、何か不思議な場面に出くわすと(事実は小説より奇なりというが、妙に私はそういう場面に出くわすことが多い)「あの人ならどう思うのだろう? どう動くのだろう?」とシミュレーションすることが多い。結局は私自身として動くのだけれど、一度は立ち止まってそのように考えるのが癖になっているのだ。
私は、私の中に存在する「想像できる言葉」や「想像できる性格」は、全て、自分の捨てた可能性のひとつなのだと思っている。
言い換えれば、全てのフィクションは、それをひとりの人間が作っているかぎり、能力や立場的な設定外の人間の人格的な特徴は、全て作者の中に存在する選ばれなかった人格であると、私には思える。
男性作家なのに、男性よりも女性を描いた方が自然に描ける人もいる。女性作家なのに、女性より男性を描いた方が自然に描ける人もいる。あまりこんなことを言いたくはないが、潜在的にトランスジェンダー的なのかもしれない。
自分の中の異性性を、普段隠して生きているからこそ、物語の中で生き生きと、魅力的に描けるのかもしれない。
そう。もっといい言い方をしよう。
魅力的なキャラクターは、その作家の性格のひとつである。つまり、キャラクターが魅力的なのは、その作家が魅力的な性格を「持っている」ということなのだ。
逆に、下品な性格のキャラクターも、同じである。その作家の性格のひとつなのである。
ただこの話は、あくまで人の内面を描くことができる場合に限る。外面や、他人に何かを言う場面だけであれば、ただそのような人と話したことがあるという経験だけでいい。
内側から見た「自分像」として描くことのできるキャラクターは、本質的に作者の分身なのである。それがどれだけ作者自身の姿に似通っていなかったとしても、やはり、その作者自身には少しもない人格を内側から描くことはできないように私には思える。
少なくとも、私はやろうとしてもできなかった。私は、実在の他者の思っていることを想像して、それを物語にしてみようと思ったが、それはどう見ても「私」であったのだ。「あの子らしさ」がなかったのだ。
いやもちろん、設定も違えば行動も違うから、私らしいわけでもないのだけれど、それでも、何というか、どこか、違う印象があるのだ。そこにはどうしても「私」が混ざってくる。
何を演じたとしても、ひとりで書いている以上、やはり「私」じゃないものは描けないのだと、私には思える。
逆に言えば、私が書いたものは全て私の中に元々あったものなのだ。
その愚かさも賢さも、醜さも美しさも、やはり私なのだと思うと、少し安心する。