必要なのは感謝ではなく敬意なのでは

不愉快なあいまい表現

 言葉の意味があいまいであるのは別に構わない。でもあいまいなまま扱うなら、それは命令や義務といった形式ではなく、情緒的な、文脈的な……自由な表現であってほしい。

 かしこまった場や、それ自体がひとつの規定を含むような言葉の中に、あいまいさが含まれていると私は気持ち悪くなる。
 目標や方針の中にあるあいまいな表現は、嫌いだ。
 
「感謝の気持ちを忘れずに」
 などと言われても、私にはよく分からない。感謝とはいったい何を示すのか。


感謝の意味・用法

 自分が困っているとき、誰かの助けを必要としているとき、ちょうどよく手を差し伸べてもらったとしよう。(私にはそういう経験が何度かある)
 そのとき人は、独特な、強い、好意的な感情を抱く。「報いたい」という強い衝動を抱く。自分がどれだけその他者に対して「感謝」しているか、体全体で伝えたいと欲する。
 これは愛情に近い感覚だ。それは、内側から湧き上がってくる強いエネルギーであって、理屈で言い表せるものではない。

 私は、そのような「感謝」という感情を知っているから「感謝しなければならない」「感謝しよう」「ありがとうございました」がよく分からない。

 もちろん、世間での付き合いの中で、何かをしてもらったとき気軽に「嬉しいな」という気持ちを伝えるために「ありがとう」と言うことはあるし、相手が何か自分に利益を与えてくれたら、好意的な感情を抱いていることを相手に伝えるのは礼儀だと思う。
 たとえその時の気分が悪くて好意的な感情を抱くことができなくても、相手の心情のために、「自分がそういう感情を抱いていたことにしてしまう」ということも、日常生活では多々あることだ。


違うものをひとつの同じ言葉で言い表したくない

 しかしやはり、まったく別のものを、ひとつの同じ言葉にまとめてしまうのは、どうにも気分が悪いのだ。どちらの観念に対しても、なんだか失礼な感じがする。

 あの強い、愛情にもよく似た、相手のためなら何でもしたいというあの衝動と、相手と自分の関係をよりよいものにするための、礼儀としてのあの作法を、同じ「感謝」というひとつの言葉にまとめてしまうことには、強い抵抗を感じる。


「敬意」という言葉

 相応しい言葉は「敬意」なのではないかと思っている。相手の心情を思い遣り、相手が自分にしてくれたことを理解し、それ相応の態度を取る。
 そういう礼儀作法は、「感謝」ではなく「敬意」と表現した方が近いように、私には思える。

 「感謝しろ」は意味不明だが「敬意を払え」なら理解できる。感謝をしてもらうことを強制するのは気分が悪いが、敬意を払うことを勧めるのは、理解できる。人の感情はコントロールできないが、理解度や態度ならできる場合がある。

 「万物に感謝を」は理解不能だが「万物に敬意を」なら理解できる。あらゆるものは、私たちが敬意を払うに値する何かを内に含んでいるというのは事実だから。


「敬意」の重要性

 現代人は「敬意」ということの重要性をあまり理解していないような気がする。現代では、見せかけだけの礼儀、同情が横行している。愛情までも、演技性ばかり。

 対して敬意というのは、演技から入ることも多い。敬意はもともと内に演技的なものを含んでいる。一種の演技であることも、肯定できる概念なのだ。
 感謝は演技であったら気分が悪い。だが他者からそう抱くよう押し付けられた感謝は、演技にしかならない。
 敬意は演技であっても構わない。重要なのは、態度なのであるから。

 敬意は相手が自分(あるいは世界)にとって重要なものであることを認めることであり、それは敵対関係や上下関係に影響されない。
 まったく接点のない人間に対しても、敬意というものは、知るということだけで持つことが可能になる。

 感謝は強い感情だが、やはりそれは感情であり、誰かに何かをしてもらったときに生じるものである。何もしてもらっていないのに、あの強い感情を自ら呼び起こすのは、不可能である。少なくとも私にとっては、そうである。

 敬意は、自分の意思で持つことが可能である。他者を軽んじないこと。その重要性を理解すること。ていねいに接すること。自分の都合のためだけに利用しないこと。

 自分が相手を理解できていないことを、自覚すること。理解しようがないことを、自覚すること。

 理解できないものには、敬意を払うこと。おそらく今の世界に必要なのはそれだけだ。

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