大衆に連続性はない


 やっと気づいた! 素晴らしい!

 私は産まれてから、ずっと不安に思っていたことがある。
「ものごとの価値を『みんな』が決めるというのなら、結局私や他の個人が成し遂げたことがらは、『みんな』が見ていないと意味がないし、それだけではなくて『みんな』が覚えていなければもっと意味がないのではないか?」
 そう。これは恐ろしい問いだ。
 『みんな』が私のやっていることを知っていて、それをずっと覚えてくれていないと、私のやったことは全部消えてなくなり無意味になるとしたら?

 私はいろんな方法でこの問いに対して反論してきたが、それでもしつこくこの問いは私の方にやってきた。
「商品は、人気があるほど価値がある」
「そもそも知られていなければ、多くの人には伝わらない」
「ひとりでできることには限りがある」
 この資本主義社会では『みんな』や『お客様』というおぞましい概念から逃げるのが難しかった。

 ただ今日この日、この考えを真正面から粉砕する思想を獲得した。

「大衆(みんな)に連続性はない」

 そう。つまり、昨日の『みんな』と明日の『みんな』は違う存在なのだ。それは一見同じもののように見えるが、まるきり変化しているうえに、連続性を自覚していない。
 大事なのは、実際に連続しているかどうかではなく、連続性を自覚していない、という点だ。

 各個人は連続性を自覚していて、過去の自分を確かに「自分であったもの」として認識する。ゆえに過去の己の罪を現在の自分が償うということに納得するし、行動の責任は積極的に取ろうとする。
 
 しかし『大衆(みんな)』には、そういう連続性が存在しないのである。百年前の『みんな』は今の『みんな』と完全に断絶されており、同時に百年後の『みんな』は今の『みんな』とは何の関係性もない。関係性を持てない。
 そこに関係性を見出せるのは『個人』だけであり、『みんな』は常に、連続性を保つことができない。

 『みんな』はあくまで伝達の道具にすぎず、それが一瞬役に立つだけで十分なのである。つまり、流行が過ぎ去って『みんな』から忘れ去られたとしても、価値は変動しないのである。

 言い方を変えれば『みんな』が価値があると思ったものを、次の『みんな』が価値はないと言えば、その通り、価値がなくなってしまう。つまり『みんな』による価値判断は、常にその瞬間に限定されたものであり、私たち連続性を持った個人にとっての価値判断とは似て非なるものなのだ。

 私たち各個人は、私たちの中で価値が移り変わっていくことを理解するが、それには確かに連続性がある。
 昔好きだったものが今好きでなくなったとしても、そうであったことはしっかり覚えているし、そうなった理由もちゃんと考える。まるっきり忘れ去って、どうでもいいと捨て置くわけじゃない。
 でも『みんな』には、そういう感覚というものがない。『みんな』とは常に、瞬間的な判断であり、連続性のない個別の『結果』に過ぎない。

 世論は、かつての世論の責任をとることができない。そもそも世論に連続的な人格などなく、あくまでそれは各個人がそれぞれ、そういう非人間的なものを擬人化して捉えたものである。

 『みんな』など、単なるデータ上の結果に過ぎない! これは、価値判断するもの(主体)ではなく、その時代の価値判断の結果を告げるものに過ぎない!

 そうだ。『みんな』などないのだ。連続性のないものに、惑わされてはいけない。

 私たち人間は連続性の中で生きている。過去が現在に繋がり、現在の行動の結果が未来になっていくことを、私たちはちゃんと認識している。

 価値判断も、価値創造も、全て私たち個人の手の内にある。
 『みんな』の中にも『科学的客観性』に中にも、連続的な価値は存在しない!

 連続的価値。私たちはこれを追いかけよう。


二週間後の追記、自己批判
 そもそも「連続性」の意義が曖昧。おそらくは「持続性」と同意義と思われる。つまり「みんな」が高く評価したものの中で、忘れ去られるものと、一部の人はずっと覚えていることの二種類があるのはなぜかというと、それに強い思い入れをもった「個人」が存しているかどうかという問題となり、つまり実のところ「みんな」というのが何かを判断しているのではなく、「みんな」が「各個人」によいとされるものを伝え、その各個人が、よいと思ったものを次の時代に残していく、という構造のことを言ってるのだと思う。
 これちゃんと伝わってるのかなぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?