多様性と権力についての考察。そしてえぽけーちゃんの登場。
そもそも権力とは何かという話なのだ。それは「ひとつの意見、思想、人間、集団、あらゆる力を持ちうるものに、従っている力の総量」なのだ。
だからもっとも単純に捉えるならば「権力≒支持者、追従者の数」と言ってもいい。(あくまで多様な解釈のうちのひとつとして)
金を持っている人間が権力を持つのは、金に従う労働者が社会的に大多数であり、間接的に金を持っている人間に労働力が集まるからである。逆に言えば、金に従わない人間が大多数である社会において、権力は金で買うことができない。たとえば、古代ギリシャのスパルタがそうであった。彼らは自らの勇敢さや実直さ、敵に対する冷酷さなどの人としての徳によって権力の大きさを決定させていた。(しかし彼らがその優れた法と制度ゆえに広げた力と引き換えに、被支配地域から流入する危険な文化によって、他国と同じように金や快楽が力を持ち、結果として衰退していったのは皮肉と言えよう)
ともあれ、多様性とは、端的に言えば皆が別の信念を持って生きるということである。つまりそれぞれが、何に従うかを己自ら選択し、それが互いに違っていることを許す、ということなのだ。
これまでに民主主義的権力が最も強くなるのは、ファシズム的な「イデオロギー(善悪)第一主義」か、あるいは「金銭、利益第一主義」のどちらかであった
つまり、魅力的な「善悪の価値観」のもと団結するか、原始的欲望の根源である「利益や快楽」のもと団結するか、ということなのだ。
第二次世界大戦の「善悪」は非常に単純で、劣ったものだった。日本もドイツも、他国民を己の思想に従属させられるほど魅力的な「善悪」を提示できなかった。ゆえに敗北した。ソ連は、マルクスの旗のもと世界全体に影響を及ぼすような「善悪」を掲げたが、中身が伴っていなかった。だから崩壊した。
それに対してアメリカは、相互の利益と自由主義というもっとも単純で原始的なものを掲げたことによって勝利した。中国も近年は、アメリカと似たようなものだ。
多様性が尊重されるとどうなるか。権力が分散するのだ。金で動かない人間が増えるほど、金を持った人間の発言権も影響力も弱くなり、かつて金に従っていた人間が、別のものに従うようになる。
アイドル文化はそれをよく示している。アイドル自身も、それを愛好する人間も、金をあくまで付属物としてしか捉えていない。金のためにアイドルが存在するのではなく、アイドルのためにアイドルが存在する。それ自体がひとつの価値として自己完結しているのは、とても面白い。
漫画やアニメ、映画も同様だ。それは金に依存してしまっている部分はあるが、他の工業製品や食料品よりは、金を持った人間の影響力が少ない。
みなが同じ意見をもって、同じように行動する。それは何かひとつの一大事業を成し遂げる力にはなるし、権力というのは使い方を間違いなければ偉大となることもある。ピラミッドや古墳がその象徴であり、人類の遺産の半分は、優れた巨大権力によって産み出されたことを忘れてはならない。
ただし、個人の類まれな努力によって産み出された遺産も、人類の遺産のうちの重大な部分を占めていることを忘れてはならない。これは権力とは反対の力によって産み出されている。権力の反動とさえ言ってもいい。
学問、技術、歴史、芸術、全て権力ではなく個人の意思の繋がりによって発展してきたものだ。いやむしろ、権力が譲歩して彼らに道を譲った結果とさえいえる!
多様性と権力の問題は、複雑に絡み合っている。
私は「多様性が認められるほど、最大多数の権力は弱まっていく」という結論を引き出そうとしたが、それに失敗した。
私の誠実な理性は「多様性と権力の関係はお前が思っているほど単純じゃない」ということを、私自身に示した。
私は疲れたのでこれについて判断を保留する。悪く思うな!
これを「えぽけー」ちゃんって言います! かわいがってあげてください!