徳は徳そのものが報酬である
日本人は西洋人の「徳(アレテー)」の感覚がほとんど見についていない。
徳とは何か。それは能力であり、長所である。道徳的な意味ではなく、単に生物として優れている点である。
たとえば「馬の徳は、人を乗せて早く走れること」である。西洋人が使う「徳」はこういう意味であり、「徳のある人」というのは「何かに秀でた人」を意味する。決して「道徳的な人」を意味するわけではないから、それを勘違いしないでおこう。
さて、自分にまつわるものごとを何から何まで損得で考えたり、それに意味があるかなどと考え出したりする連中がいる。
そういう人たちにとって、あらゆる人間の長所は、その長所を生かすことで何か自分や社会に利益をもたらすために存在する、というものらしい。
だけれど、私たちにとってはそうではない。徳は、徳を働かせること自体が喜びであり、それがどんな結果をもたらすかは私たちにとってはどうでもいいことなのである。
鳥は空を飛ぶこと自体に喜びを見出す。それに対価など要求しない。
同じように私は、自分の頭で考えることに喜びを見出す。それに対価を要求するなど、もってのほかだ。
「それが何の役に立つ?」なんて問は、品のない貧乏人のセリフだ。徳以上に価値のあるものはない。どれだけ金を積んでも、心の美しさや目的そのものは絶対に手に入らない。
お金で鳥の翼を買うことはできても、その翼で大空を羽ばたくことは絶対にできない。徳とは、そういうものなのである。
蛆虫共の話は聞かないようにしよう。私たちは「結果」や「報酬」ではなく「行為」を目指そう。「行為」自体が、人生におけるもっとも大きな価値を持つものであり、人はそれを目指すべきなのだ。
「自分がどうあるか」
「自分は何が得られるか」
「自分がどう感じるか」
なんて子供染みた考えは、忘れてしまおう。私たちはそんな弱い問はこの一言で終わりにできてしまう。
「私のこの体と心に一体何の価値があるだろう? 全くない! ゼロだ!」
そうだ。だから、行為するのだ。私たちの体と心を使って、私たちの為すべきことをするのだ。それで自分がどうなるかなんて、どうでもいい。その「為す」ということ自体に価値があるのだから、その前も後も、どうでもいいのだ。
私は私の徳とその行使を愛する。