揚げ足取りについて
私は「揚げ足を取るな」と人を咎めたことが、記憶のかぎり一度もない。自分が何か隙のあることを言って、そこを突かれた場合、それは自分の言葉に原因があるのだから、素直に失敗を認めて言い直したり、あるいは考え直したりすることが多い。
それとは別に、ただ批判がしたいだけ、という人がいて、そういう人は不快だし、一刻も早くその人とは離れたくなる。だからそういう人に対しては「この人、揚げ足取ってくるなぁ」と思う前に「こいつと話しても疲れるだけだなぁ」と思うので、本当のことは言わない、というわけ。
最後に「揚げ足取るな」と言われたのは、多分小学生の低学年くらいの頃だと思う。私は理屈っぽい性格だったから「それ、なんか変じゃない?」と思ったことは、すかさず突っ込む子供だった。だからこそ、大人から嫌がられることも褒められることも多かったと思う。大人にも、色々な人がいるんだということを、幼い私は理解していた。
色々と痛い目にあったうえで、相手を批判するときは、その批判に対して相手が少なからず「もっともだ」と思えるような言い方をしなくてはいけないことを学んだ。「それは揚げ足取りだ」と一蹴されてしまうなら、その言い方がまずかったのだ、と思うようになった。
自分が相手の言いたいことを理解したうえで、自分がなぜ相手の意見に口を出したいのかも明確にし、相手にその批判を拒む権利があることを、分かりやすく表現する。
敵意や意見の反発をもって議論をするのではなく、一緒に考え、できるだけ考えを近づける、あるいは理解することを目的として議論する。その方が楽しいし、安心して話すことができる。
人は人の意見を誤解する生き物ではあるが、単なる誤解を、意図的な意地悪として解釈するのは、あまりにももったいない。誤解による敵意は、それが誤解だと分かれば簡単に解消される。そして誤解を解消するために大切なのは「私は誤解しているかもしれない」「私は誤解されているかもしれない」という友好的な懐疑だ。
もしかすると、相手はただ意地悪な気持ちを持って私の意見を曲解してきたのかもしれない。だとしても、私が「あなたは誤解してしまっていますよ」と言って、決して相手が私に意地悪したとは思っていないような態度を取っていれば、たいていの人は、自分が意地悪な意識を持っていたことを忘れてしまう。意地悪な人というのは、自分のやったことが意地悪だと思われていないことを知ると、自分が意地悪なことをしていなかったのだと思い込んでしまうらしい。記憶力が悪いのか、それともそれくらい自分の気持ちに無自覚なのか。
私は敵意に鈍感な方ではないが、敵意に対して鈍感なふりをすれば、敵意を向けられることが減ることを知っている。
揚げ足取りをする人間に対して揚げ足を取ると、その議論は永遠に不毛になってしまう。だが、揚げ足取りをされたときに、それを相手の正当な取り分として扱ってみると、相手は私に対して対価を差し出してくれる。
実はそういう風にして、こちらの人間性を測っているのではないか、と疑いたくなるほどである。はじめに敵意を向けて、それに敵意を返してくるようだったら、自分と同等に近い人間であり、もし敵意に対して鈍感であるならば、その相手は自分が尊重すべき人間である、という風に。
まぁそんなことはないんだろうけど、実際の人間に対してどのように接するのか、というのは色々なやり方があって楽しい。
私は楽しいことや喜ぶことが好きで、熱狂することや、感情をぶちまけることはあまり好きではない。コンサート会場やスポーツバーよりも、寺や博物館の方が居心地が良い。
喧嘩も争いも美しくないものは不快だし、相手が喧嘩や争いを好む人だとしても、私はその矛先を逸らす術を心得ているから、何の問題もない。
議論で勝てる人間よりも、相手に議論での勝ちを放棄される術を心得ている人間の方が優れている。勝つことよりも楽しい知的な遊戯を考え出し、それに人を巻き込める人の方が優れている。
もし相手がその知的な遊戯を「つらくて苦しいこと」として逃げるようであれば、それは第三者から見れば、その人は「負けた」ように見えることだろう。
実は、議論での勝ちを欲せず、負けたと思われることをも厭わず、ただその議論を楽しみ、より実りあるものにしようとする人間は、議論の勝ち負けを強く気にする人間にとって、対処不能な天敵なのだ。
もし勝ち負けのある議論に巻き込まれたら、さっさとそのくだらない勝利を相手に譲って、その相手の主張する意見に従って議論を進めてみよう。すると相手は、勝ったはずなのにいつの間にか負け犬みたいな態度で退散していくことだろう。
揚げ足を取られたら、素直に転んで受け身を取ろう。ムキになってすぐ立ち上がるのではなく、相手にも腰を下ろすよう勧めよう。そこからはもう、勝負の世界ではなく、知性の世界だ。憂鬱や不安とともに、発見の喜びや心を交わす楽しさを味わうのだ。考えることで生じる憂鬱や不安に耐えられない人々は、その幸せを味わうことなく立ち上がって去っていく。
私たちはそれを見て優越感に浸る必要はない。勝利したと感じる必要もない。
だって、私たち自身の幸せに浸ればいいのだから。
勝つことでしか喜べない人には、勝利を譲ってやろう。彼らと言葉の攻撃性で競う理由など、私たちにはないのだから。