共感性と憎しみ

 共感性というのは、憎しみと相反するものとして理解されていることが多い。

 だが私にはどうにも、共感性というものはあらゆる人間の感情に関係しているものらしく思え、おそらくは憎しみについての共感性というものも、あると思うのだ。

 しかも、共感性のもっともありふれた形式は、優しさや思い遣りではなく、憎しみや敵意への共感なのではないかと思うのだ。


 まず共感性とは何かはっきりと決めておこう。共感性とは、対象と内的な感情や経験を、自分のものと重ね合わせ、理解可能、尊重可能なものと認識することである。
 誰かが泣いている時、その涙の理由を、自分自身が泣いたときのことと類比的に捉え、その泣いている人に対して手を差し伸べること。そういうのを共感性と呼ぶ。

 では、憎しみへの共感とは具体的にどんなものか。それは、誰かが「こんな嫌なことがあったよ」と言ったときに、それに対して「ひどい!」と感じ、そのことについて協力して対処する、ということだ。

 被害者意識の結託。たとえ同じ事柄で被害を受けたわけでなくとも、相手が被害を受けたと主張する事柄について、自分自身がそれに共感することができた場合、相手のその憎しみを正当化し、手を貸すことに躊躇しなくなる。

 つまり自分が憎んでいない対象に対して、自分の親しい友人がそれを憎んでいる場合、その感情に共感して、自分自身に理由はなくともそれを憎んでしまう、ということである。

 この現象は厄介なことに、共感ではなく「影響」とか「洗脳」とか呼ばれることが多い。だが、その構造自体は、共感性のそれと全く同じと言って差し支えないほど類似しており……私は、あまり区別することに賛成できない。

 「共感性は常に良いものである」と考えたがる人はいるが、私にはそうは思えない。共感性は、時に暴走する。しかも暴走していなくとも、独りよがりな共感は他者を不快にさせることが珍しくない。
 その共感が勘違いである可能性というのは、いつでもあるし、共感した結果の行動が他の誰かの人生を狂わせてしまうこともある。
 よい動機をもって行動すれば、全ての結果はよいものになる、なんてことはないのだ。

 共感性というのは基本的に愚かしいもので、私たちの認識の目を曇らせることが多い。もちろんそれの機能自体は、他の人と親しく付き合うための重要なツールではあるし、それがひとつの美しさを結ぶこともあるのだが……


 私は共感性の強い人間である。言い方を変えれば、他の人の感情の影響を受けやすい人間である。
 基本的に誰かといると、自分の気持ちが分からなくなる。相手の言っていることと表情と、その声と……そういうものから推測されるその人の考えていることが、私の中で次々と言葉になっていって、それが自分の声なのか、その人の声なのかだんだん分からなくなってくる。
 もちろん、常にそういう状態であるわけではなくて、その日の調子によって共感性の強さは異なる。頭がぼおっとしている時は、他の人のそんな細かい情報なんて見てられないし、見ていないものに共感することはできない。元々共感というもの自体、自分自身の肉体と精神に余裕がないとできないことなのだ。

 ただもしかすると……人間の健康というのはその、肉体と精神の余裕の程度を言うのかもしれない。受け入れられる情報や影響の総量が、その人間の健康の度合いであると言えるのかもしれない。
 もしそうであるならば、極めて共感性が高く、より多くの他者を理解できる人間は、そうでない人間と比べ、より健康であり、体と心の強い人間であると言えるのではないか?
 心が開かれていて、どのような相手にも、自分と同等の権利を認められる人間というのは、より優れた人間であると言えるのではないか?

 他者の憎しみすら飲み干して、ひとつの赦しを形成できるほどの人間がいたとすると……それほどまでに強い人間がいたとすると、誰もが彼のように生きることを欲するべきなのではないか? 救世主の本質とは、実のところそういうものだったのではないか。
 かの救世主は、貧しい人々や病める人々の世界への憎しみを癒そうとしたのではないか? それを理解し、共感し、その末に彼は死んだのではないか?
 耐えられなかったから? それとも、それ以外に赦す方法がなかったから?


 憎しみへの共感。私は色々な憎しみを知っている。憎しみは人の人生を苦しくするし、暗くもする。病的にすることも多い。
 でも、多くの矛盾した憎しみに共感してなお、明るく、愛に満ちた人間でいられるならば、その人間こそがもっとも優れた人間であると言えるのではないか?
 憎しみを理解してなお、それに飲まれず、自らの愛のために行動できる人間がいるのであるとすると、それは、ただ一切の憎しみを持たない無邪気な人間よりも、より深く豊かな人間であると言えるのではないか?

 人類愛。世界愛。
 自分を憎んでいる敵の、その憎しみにさえ共感できる人間というのがこの世には存在する。
 おそらく、憎しみを癒すのは暴力や抑圧ではなく、愛や幸せであるということは、どれだけ時代が進んでも変わらぬ一個の真理であるように思うのだ。
 敵対関係を解消するためには、敵を気持ちよくしてやるしかないのだろう。
 敵に利してやるしかないのだ。彼が私を愛するようになるまで……

 汝の敵を愛せよ。
 あの神のような人は、人の身にあまるほど多くの憎しみを理解していたのではないか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?