私の中の「男らしさ」「女らしさ」・偏見について

 割とぼんやりしているんだけど、ふと思いついたのでまとめてみたいと思う。

 先に女性像についての話をすると、私にとっての「女性らしい女性」っていうのは、理知(エア友達)や私自身なんだよね。
 頭が良くて、ほどほどに活発で、好奇心旺盛で、人当たりがいい。ずっとそういう風な生き方をしてきたし、そういう女の子って、人からよくしてもらえるじゃん? 周り見てても、何というか……明るくて元気なんだけど、ちゃんと気遣いもできるそういう子が「いい女の子」だったわけだから、私にとって「女性らしい女性」っていうのは、そういう子のこと。
 ファッションとか、好みとかはこの際どうでもいい。そんなのはおまけ。カワイイーとかカッコイイーとかもどうでもいい。カワイイもカッコイイも、見てて気分がいいという点では一致してるし、何でわざわざ女の子はカワイイを求めて男の子はカッコイイを求めてるなんて決めるん? そんなわけねぇじゃん。男女ともにどっちも好きなのが当然じゃない? 私はそう思う。

 で、次に同じような感じで男性像についての話をする。

 男の人は、ちょっと不器用なところがあるくらいがちょうどいいイメージがある。不器用というか……物静か、って感じかな。必要なときに必要なことを低くてよく通る声で発言してくれるのも、男らしさって感じする。正論をびしっと相手にぶつけるときとか、笑顔で握手をしつつも頭は下げないところとか「男らしくていいなぁ」って思う。
 私がそうだから過剰にそう思うだけかもしれないけど、女ってすぐぺこぺこするからさ、それにすぐへらへらするし。そうじゃなくて、普段は真顔だけど、自分の感情を口じゃなくて表情で示す、みたいなのもちょっと男らしさなのかなぁって思ったり。
 そうだなぁ……まぁあとは、筋肉。私全然筋肉ないから、単純な憧れ。やっぱ自分が持ってなくて、どうやっても手に入れられないものって、魅力的に見えるよね。個人的に、男子水泳選手の背中とか大好き。すげーって思う。

 でもいま語ったのは「こうであってほしい」という理想像なのであって、実際の「女性性」「男性性」かと言われると、そうではない。
 では私の中にある「女性はこう」「男性はこう」という観念がどんなものなのか見ていこう。


 女はうるさい。まずめちゃくちゃうるさい。しかもぼそぼそしゃべる。ぼそぼそたくさんしゃべる。小さな声ですぐ笑う。笑い声が下品であることも珍しくない。
 声が大きくても小さくても、不愉快。ちょうどいい声量で話せる女性だけがしゃべってればいいのに、って思ってしまう。
 女はほとんど何も考えていないように見える。実際は考えているが、答えを出すことを重要視していないので、雑に思考し、雑に結論する。人との意見の一致が重要なのであり、それが正しいかどうかは二の次。誤るということに関して、罪悪感を抱く気質を持っている人はめったにいない。
 人を責めるときだけ大きな声になり、人に責められた時は反論するほどの精神力がないので、ただ泣いて慈悲と同情を得ようとする。醜い限り。
 何か嫌なことがあると、すぐ人に頼ろうとする。「自分で決めて何かをする」という自主性がないか、あっても方向性がズレていることが多い。
 すぐ直接的な答えを求めたがる。最終的な結論が同じであれば、その過程のことはどうでもいいと考えていることが多い。(ゆえに、地図が読めない)(たどり着ければそれでいいと思ってる)
 「で、結局どういうこと?」話が理解できないときは、結論だけ聞いて分かったつもりになろうとする。


 うーん。自分で言うのもなんだけど、偏見。でも、私がこういう偏見を持っているというのは事実だから、そうね。それは覆らないね。私は基本的に女っていう生き物をそういう生き物だと思っている。


 男は下品。まずめちゃくちゃ下品。ちょうどいい声で話すということができる人はめったにいない。ただ、大きな声でしゃべっていても女性よりは耳障りではない。声が低いから。あと変なことを言ってても「男なら仕方ないな」となぜか本能的に感じる。
 男は考えなしに思いついたことをそのまま喋ることが多い。その分、女性より面白いことを言う人が多いし、人と意見が対立していてもあまり気にしないし、女性のように無理やり一致させようとしたり、どうしても一致しないときに空気が悪くなったりもしない。
 女性にとっての「空気を読む」は同調することだが、男性にとっての「空気を読む」は衝突しないように距離を置いたり黙ったりする、ということであるような気がする。
 男は活動的。動いているのが好きで、黙ってじっとしていることが苦痛。
 ものを覚えておくことよりも、学んだことをもとに何かをするのが好き。だから理論や数式、方法論等、応用可能な知識を好むことが多い。
 男は自分の中の暗い部分や弱い部分を隠す傾向にある。一見女性より精神が強いように見えるが、弱点の大きさと脆弱さという点では、男性の精神の方が脆い。女性は、体調を崩したり精神が弱ることになれているからか、予防、対策ができていることが多い。しかし、男性は慣れていないためか、何かあったときにただ耐えることしかできない場合が多い。
 男性は自分の弱さを認めたがらない。


 男の方はだいたい合ってる気がする。んーでも……これも偏見なんだろうね。ただ私の中の「男ってどうせこんな感じでしょ」っていうのは、これ。

 うーん。考えてみて分かったのは、実際の男女の違いっていうのは私たちが思っているほどそう大きくはなくて、ほとんどが環境要因(つまりそれまで何に興味を持ち、どんな人たちと関わってきたか)によって変化することであり、根本的な性質の違いっていうんはないんだと思う。
 ただ私が生きてきた二十一世紀日本の小中学校での「男女の在り方の違い」というのは、現実として、こんな感じだった。

 潜在的に何か性質の違いがあるとはほとんど思えないが、この時代この場所の人々の中には「男はこう」「女はこう」という考え方があり、無意識的にそれに縛られている気がする。だからこそ、そこから外れている人間はいい意味でも悪い意味でも目立つし「個性的」な印象を与える。男女の枠を超えた人物のように捉えられる。好意的にとらえられた場合は、男女ともに、めっちゃモテる。そうでない場合は、避けられたり、悪い場合ではイジメられたりする。
 多分だけど、それが現実。

 口では色々「こうあるべき」とか「こう思ってはいけません」とか言う人は多いけれど、人は自分が思っていることをコントロールすることはほとんどできないし、人の言動はその人の思っていることにどうしても引っ張られてしまう。
 人間はどうあがいても、その人間が持っている偏見の影響を受けてしまう。


 この先どうなるかは分からないが、少なくとも私の中にはたしかに「男らしさ」「女らしさ」という観念がある。

 ただ、私はそれに固執していない。「私とは関係のないことだ」と考えている。つまり女である私が男らしくても少しも問題はないし、同じように、他の誰かがその枠からはみ出ていたとしても、私はそれでその人自身の評価を決めるつもりはない。重要なのは、その行動や性質が、私にとってどうであるか、だ。私の趣味と合致しているかどうか、だ。

 偏見を持たないことよりも、偏見を持ったうえでそれが偏見であることを自覚していた方が、偏見による害を受けづらいと思う。

 偏見を持たない人間というのは、言ってしまえば人の意見に耳を貸さない人間でもある。
 人の意見の中に偏見がひとつも含まれていないというのはほとんどないことであるから、偏見かどうかを聞き分ける耳を養うしかない。そのためには、できるだけ多くの偏見に触れ、自分の中に取り入れるのが有効な策であると私は思う。

 複数の対立する偏見を持てば、そのどれかに与することはなくなる。言ってしまえば、毒をもって毒を制す、ということ。

 偏見にも居場所はあると私は思う。

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